ゆるふわ探求

普段から思い考えていることを言いたい放題、お話しする趣味のブログです。

# 4 法律が全てではないと思います。法律やルールだけで人の幸せは守れない。穏やかで楽しい毎日は一人一人の目に見えない大変な努力の上にようやく成り立つものだと思います。

2024.1更新
 
僕は法律の事も裁判の事とかもよくわかっていないという点をおことわりさせて頂いた上でお話しさせて頂きたいと思うんですけど、イジメやパワハラ、犯罪、違法なことその他モロモロのような人が関わるトラブルが起きた場合、法律は弱い人の味方ではなく知っている人の味方らしくて、法律に詳しい方に相談して証拠になるようなものを準備して警察や弁護士さんを通して様々な複雑な手順、過程を踏んで、たくさんお金や時間を使い、裁判所からの決定のようなものがあってようやく、たくさんの方が恐れる、罰金とか懲役何年とかの話になると思うんですけど、そのものすごい過程にエネルギーを注いだあげく、解決しないということもあります。泥棒とか詐欺とかで取られたお金も大体はかえってこないと聞いたこともあります。
 
 
どんなことをしても見つかったり、訴えられなければどうということはないし、仮に訴えられても逃ることができる人はいるんですよね。
 
 
ですので法律的な解決までの壁が何重にもあって壁があまりにも多く、ニュースなどで公になる事件は氷山の一角であり、自分自身の限りある能力で対応しきれないトラブルが起これば、基本的にはどんなに腹正しいことがあっても、理不尽なことがあっても、魔女狩りのようなことがあっても、泣き寝入りとなるのかなと思いました。
 
 
法律を破るようなことをしても裁かれないことは本当にたくさんあるんですよね。あと人の作ったものに完璧なものはないというような、例に漏れず人の作った法律も完璧なものじゃなくて抜け穴のようなものがあるらしいんですよね。
 
 
それで頭の良い方なら、場合によっては法律を守りながら、イジメたり他者の幸せを妨げることもできるらしいです。合法的に 人を自殺の一歩手前まで追い詰めるってこともできるらしいですであれば自殺の一歩手前が大袈裟であったとしても一生心に残るようなトラウマを合法的に植え付けることはできると思うんです。 一度心に焼き付いてしまったトラウマは 回復するまでに たくさんの時間を必要とする場合があります 。あるいは死ぬまで回復できない場合もあるかもしれません。
ということは それだけ 幸福までの道のりが遠くなるということだとも思うんですよね。
とても頭の良い人なら、 きちんと法律やルールを守りながら合法的に人を不幸にすることもできるのかもしれません。ですので僕が間違ってるかもしれないんですけど、法律を守ってれば何をしてもいいということでもないような気もします。
 
仮に法律がきちんとできていたとしても、 一休さんのように 橋の手前にこの橋は渡っていけません 、と書いてある看板があったとしても 、橋の真ん中を歩いていますと言って渡っちゃいけない、かもしれない橋を渡るような人も出てくるわけですよね。
 
 
なので法律だけを守っていても人の幸せや、穏やかな生活は守られないと思うのです。もともと人の幸せを守るためのものじゃないかもしれないんですけど、 法律やルールだけで人の幸せを守ろうとするのでは不十分じゃないかなと思います。
 
 
今は飲酒運転は凶悪な犯罪らしいんですけど、昔は飲酒運転は違法ではなかったらしいんですよね。あと最近はあおり運転とかで厳罰化みたいな話もあるみたいなんですけど、昔はあおり運転がダメみたいな法律はほとんどなかったような気がします。今も昔もあおり運転みたいなことされて怖い思いをした人はいたと思うんですけど、多分、あおり運転し放題だったんですよね。そして被害にあわれていた方は、自力で交渉するか暴力的に解決するか、我慢するかという感じだったんじゃないかなと思います。
 
 
厳しい感じの法律がなかった時代はやはり、法律的な対応は難しいという感じになり、泣き寝入りというかんじにならざる負えないという時もあったと思います。
あとそれでも僕はやってないっていう映画みたいな感じで痴漢冤罪みたいに、やってないのにやったって疑われたら、大体アウトみたいな話も聞いたことがあります。
難しくてよくわからなかったのですが、やっていないことをやっていないと証明するのは悪魔の証明とか聞いたこともあります。(疑われたらおしまい?)
ですから時々、やましいことがないのなら堂々としてればいいとか、何かあったら法律が守ってくれるとか話す方が、おられるんですけども、そんな簡単には助けてもらえない時のほうが多数派で実際には助けてもらえない時はたくさんあるんですよね。
そういえば、お巡りさんも事後にしか動けないと聞いたことがあるような気がします。
お役所仕事という表現も聞いたことがあります。
 
 
でも警察の方や法律に関わる方だけが、冤罪とか濡れ衣とかするわけではないんですよね。
 
 
それは一般家庭や職場でもたびたび行われていることなんですよね。
様々なパターンがあると思うんですけど、例えば仕事中に上司の指示通りにやったのに、上司が自分の出した指示を忘れてしまっていて、勝手なことをしたと怒られることもありますよね。指示どうりにやりましたという証拠が出せなければ犯人という扱いになります。
それでなんとか証拠を出せたとしても、そんなの関係ないとか、そんなの証拠にならないとか言われて受け入れてもらえないことも普通にあります。
 
 
人間がいるところならどこでも起こりうることなんですよね。
その根底にあるのが、自分を守ろうとするような思いとか、陥れようとする思いとか、決めつけ、思いこみみたいな感じなんですよね。この人が疑わしい、犯人はこの人に違いない、この人しかありえないみたいになっちゃうと、疑わしきは罰せよという方向に話が進んでいくんですよね。
どちらかというと疑わしきは罰しないというほうが健全と思いますが、そもそも僕のように自分は絶対間違ってないという思い込みが強い人は、自分の判断が間違えてるかもしれない、どこかに見落としがあるかもしれないという可能性に目を向けるということが難しいのです。
 
人である以上、どうしても仕方がない部分もあると思いますが、意志疎通する時も誤差がでることはあると思いますし、単純に分析力や判断する力が足りないから濡れ衣を着せてしまうということもあると思います。伝言ゲームみたいな感じで、悪意もなく誤解や勘違いを重ねて、言った、言ってない、やった、やっていないというふうになる可能性も常にあると思います。
 
 
もし自分に疑いの目を向けられる事があったら、やましいことがないかのように堂々とし、言葉を濁し弁明しないで一度は疑いの目を向けてきた人が事実に自分の自力でたどりついてくれるか、静観してみるといいかもしれません。
話が進んでいくことで時には事実にたどり着いてくれることもありますし、ハッキリとはしなかったけど疑わしきは罰しないという感じで無罪放免のようになることもあるかもしれません。しかし場合によっては本当に犯人にされます。
 
 
人が何を考えてるかなんて中々分からないし、嘘をついているかどうかも中々わかりません。直観的に感覚的に感じる事はあっても外れてたら、勘違いだったらどうしようと思うと非常に悩ましいです。犯人捜しの時は明日は我が身と思うと恐ろしいので、濡れ衣を着せるようなことは極力減らすため、本当に石橋を叩いて渡るくらい慎重になるしかないのかもしれません。あるいは犯人は分からないとするしかないかも…。
 
 
疑われるようなことをするほうが悪い、誤解されるようなことをするほうが悪いと話す方もおられますが、真実ではないこと事実ではないことに意識を向け、無実の人に疑いをむける人や誤解をした人が……まるで間違えたほうは何も悪くないかのような捉え方だと感じました。(意図的に誤解されるようなことをするのもまずいとも思います。)
疑われるようなことをするほうが悪い、誤解されるようなことをするほうが悪いというのなら、疑いまくって、誤解しまくって追いつめていれば、いずれは悪魔の証明の如くやっていないと証明することが難しいことも出てきて、無実かもしれない人を犯人として吊るすこともできるかもしれません。攻撃し放題だと思いました。
やりたい放題だと思いました。
 
 
僕の経験上、攻撃的で自分の思い込み、自分が決めつけてしまっている可能性に疑問を持たない人たちに、疑いの目を向けられたら、記憶力に自信がある人や、かなり弁のたつひと、話すのがうまい人じゃないと、逃げきれないと思いました。
容疑者とか被疑者が、かくかくしかじかで私はやってません。というふうに弁明をしていて、問い詰める側の人、犯人を追いつめる側の人が言い訳をするのはやめなさい。みたいな感じのテンプレートな状態になると 、思い込みの強い自分の判断に疑問を持たない人は、自分に見落としがあるかもしれないという、考えは簡単には受け入れられないので、一方的に事実ではない事を、本当に忍耐強く粘り強くごり押ししてきます。
根負けすれば、犯人扱いになります。
 
 
冤罪濡れ衣みたいな攻撃から身を守る方法は、ささやかではありますが、できることは目立たないこと、目を付けられないことで確率を少しだけ下げることができると思います。
このような社会では、見て見ぬふり、事なかれ主義、のような状態の方が増えても仕方がないのかなとさえ思います。
 
 
あと付き合う人を選ぶこと、 自分自身の内面を少しづつでも向上させていこうという気持ちがある人で、『冷静に 自分にも厳しい評価も下せる、楽しそうに生きてそうな人』とだけ付き合うようにするしかないと思いました。
 
経験上、他人に厳しい人は自分には甘い評価を下してるようにお見受けしました。
 
 
人間がその気になると、嘘も押し通そうとしますし、そもそも嘘と気付かない、自分も他人も騙している、事実ではない事を信じてしまい、騙されているということにも気づかないので、火のない所に煙を立てることもできると思います。
火のない所に煙は立たないよね。と思えるようなまともな社会ならまだしも、
現代社会は根がなくとも花は咲くという言葉にふさわしい状態と思いました。根がなくとも花は咲くという言葉は、事実無根でも噂は立つという意味らしいです。
なんとなく思ったのですが、法律がなければ何をしてもいいのかな、逆に法律で何をしても許されると決まれば何をしてもいいのかな、人間が深く関わる理不尽なこともある法律が、本当の意味で全てであるはずがないと思いました。あと悪いことをした人に刑務所に入って(社会的に償えという意味で話す方もいると思います。)罪を償えという方もいますが、なぜ法律的に裁かれることで罪を償ったことになるのか僕にはまだ分かりません。多分、本当の贖罪、罪滅ぼしは、神様の作り出した、様々な法則によって行われると思っています。
 
 
ツッコミどころしかない僕が言うのもなんですが、悪い心が生まれやすい、穢れやすい、心が曇りやすい、人間という生き物が、法律やルールに脅され続けていないと、あぐらをかいて襟元を正そうとしないような状態であることが諸悪の原因なのかなとも思いました。
 
 
このとてつもなく複雑で流動的なグラデーションの重なったような世界でたくさんの幸福を守りきれる完璧な法律は人間には作れないとも思うのです。
真っ当な方法では、フェアな方法では是正できない事もどうしても、でてきてしまい、神様がいいように計らってくださることを信じて、前向きでいようと努めるほかないという事も実際にたくさんあります。(泣き寝入りですね…苦笑)
 
 
あと法律やルールを徹底して守るだけでは、より良い結果が出せないという事もあると思います。
法律やルールが手かせ足かせのようになってしまい、十二分に実力を発揮できない、結果を出せないという事もあるかと思います。
 
 
法律や規則のようなものは必要で大切なものと思いますが、優先順位は法律よりも一人一人の内面であり、心の状態であり、自分自身も含めた、たくさんの人の幸せは一人一人の健全な考え方というか精神性みたいなのにかかってるんじゃないかなと思います
思いや考え方、感じ方、生き方、話し方のような一人一人の個人個人の内面の状態は、生活の中でも、仕事でも、教育でも人間関係でも家庭でも、僕たちの想像以上に大きく影響します。
一人一人の内面の状態は、周りの人の人生にも自分自身の人生にも僕たちの想像よりもはるかに大きな影響を及ぼすんじゃないかなと思います。
地球は修行の場であり僕らは魂を成長させるために生まれてくるらしいですし、たとえ法律もなくお巡りさんもいない、無人島で数名で生活していたとしても、法律に脅かされなくても、できるだけトラブルも少なく穏やかにやっていけるような心の状態を一人一人が自分なりに、自発的に目指していくほうがいいのかなって思いました。