ゆるふわ探求

普段から思い考えていることを言いたい放題、お話しする趣味のブログです。

# 5 スパルタ教育に物申す。十人十色、千差万別。和をもって貴しとなすは言うは易し。(長文)

2024.1更新
 
無駄に長いだけの悪文になってしまいましたので、暇なときにでも少しづつ、ご覧いただければと思います。
 
僕は遺伝とか全然詳しくないんですけど、人は遺伝や育った環境からの影響が大きくて、生まれてきた時点で多くの部分が決まっているらしいんですよね。          
基本的には同じ親から生まれてきた兄弟であってもさすがに顔も好みも体質も得意な事も不得意な事もそれぞれ違うことも普通にあると思います。              
似ている部分もあるとも思うんですが、 同じ親から生まれた兄弟でもこんなにも違うのに、大体の人たちは違う親から生まれてくるので兄弟よりもさらに似ている部分の少ない違う人に生まれてくると思います。
 
 
 
同じ言葉でも話でも解釈や受け止め方も人それぞれ違い、好奇心を向ける方向も関心をもつ部分も違い、風景、音楽、食べ物などの好き嫌い、映画や本の好き嫌いとか笑いのツボや、さまざまな癖、体質もちがうと思います。
冬になると僕みたいに防寒着をたくさん着込んで、カタカタ震えてるような寒がりもいれば、雪がナナメにふぶいてる時に半袖、短パンで平然と歩いてるような方もいます。
事故にあって笑っているような人もいれば、事故にあって顔面蒼白なかんじになっちゃう人もいます。虫が好きな人もいれば、嫌いな人もいますよね。虫を食べられる人もいれば食べられない人もいます。
料理もコミュニケーションも仕事もスポーツも勉強もファッションも絵もパソコンとかスマホのようなデジタル系も法律のようなものも得意な人もいれば苦手な人もいるんですよね。
自分が出来なくても他の誰かができるということもありますし、場合によっては他の誰かではできないことが自分にはできるという事もあると思います。
あと簡単な手術なら麻酔無しで耐えられるような痛みにものすごく強い方もいれば、僕みたいに蚊に刺されただけで涙目になっちゃう人もいます。血を見るのがダメという人もいますし、平気な人もいます。
ヒトの体は食べたものでできていると聞いたことがあるんですけど、みんなが皆おなじものを食べているわけではないので、さらに違いが生まれるかもしれないです。
引っ越した先の水が体に合わないという話を聞いたこともありますし、自分が住んでいる土地のものをできるだけ食べたほうがいいと聞いたこともあります。
体質というか免疫力も人それぞれ違ってくるかと思いますし、血液型も違うし第二の脳ともいわれている、腸の腸内環境とかも人それぞれ違うらしいです。様々なアレルギーの方もいますし、
パソコンを長年使っていて、視力が落ちない人もいるし、同じようにパソコンを使っていて視力が落ちただけでなく、ブルーライトまで気にしないといけなくなる人もいるかと思います。
我慢の限界も人それぞれかと思いますし、社会を天国のように感じる人も人もいれば、地獄のように感じる人もいると思います。世の中の4割くらいがブラック企業と感じる人もいれば、8割がブラック企業と感じる人もいると思います。
みんな良い人と信じている人もいれば、人を見たら泥棒と思えと思う人もいるでしょう。
『普通』とは人それぞれ違うと感じる時もあります。
自分にとっての普通が誰かにとって、普通ではないということもあると思います。
他者から影響を受けやすい人もいるし、影響を受けにくい人もいます。
 
 
 
Aさんが苦しむために生まれてきたような人生です。死ぬのも怖いし生きるのも怖いです。生きるも地獄、死ぬも地獄です。と半分冗談な感じで言うと周りの人に「そう思っているのはあなただけです」と言われたそうです。多分、人それぞれ違う人生を歩んでいます。同じような人生を歩む人はほとんどいないのです。あと仮に自分と全く同じ人生を歩んだ人がいたとしても、自分のこれまでの人生を振り返った時、同じ人間ではないので、同じ解釈、受け止め方をするわけではないとも思います。
人類の長い歴史の中で、死ぬのも怖いし生きるのも怖いです。生きるも地獄、死ぬも地獄です。と思った人がAさんだけであるはずがないです。
あと日本では毎年、約2万人くらいの方が、自殺されるそうですので、生きていて苦しいなと感じているのはさすがにAさんだけではないと思います。
 
 
 
十人十色と思えるなら、人の感じ方も人それぞれ違うと、ご理解いただけるのではないかと思います。
そう感じるのは、その人の内面の問題なんだ。変わらない変わろうとしない、その人が悪い、変わらないことを選択したその人が悪いと話す方もおられるのですが、内面には変えられる部分と、簡単には変えられない部分があると思います。
大半の厳しい教育を好む方は、他者にばかり自分の外にばかり目を向け、自分を観察していないから、他者と自分との違いへの理解が浅く、自分の変えられない部分に気付かない。自分の弱い部分に気付かない。
すると上から目線、マウントは心地よく、自分の強さばかり拡大し、傲慢になっていきます。
完璧な人はいないと言葉では分かっていても、心の底で自分の弱さを受けいれることができていない。自分の弱さが腑に落ちてない。自分の限界が分からない。自分の弱さが骨身に染みていない。
完ぺきではない人、不完全人間同士の、和を保とうとする気持ちがあり、自分と他者との違いや、自分の弱さに気付いていれば、「他者への短所や弱さへの寛容さの重要性」に気付いていけると思います。
他者へ厳しいことばかり言う人は大体、自分の事は可愛くて他者は自分の踏み台くらいにしか思っていないようにお見受けしました。
 
他者に厳しさがあったから、成長できたんでしょうと話す方がいます。
経験上、そのような方のほとんどは、過去に厳しく指導された経験があったとしても、
今はもう誰かに厳しくされていないようです。
そのような方はまるで、もはや自分は完成しており、自分には厳しさの教育は不要であるかのようです。
その証拠に問題点を指摘されると、不機嫌になっていきます。
 
他者に厳しくするのが好きな人の中には『言われているうちが花だ、何も言われなくなったら終わりだ』。という人もいます。
みんなから、『この人には何を言ってもダメだと、諦められたら終わりだぞ。』という人がいます。
そのわりに、自分たちは互いにあら探し合うようなことを言い合っているような様子もないです。もしや完成した人たちなのでしょうか?
それともお互いに、何を言っても無駄だと諦めているから終わってしまったのでしょうか。
それに判断する力のない人には何も言われないほうがいいですし、言われなくなったからと言って、何かが終わるわけでもないと思いますし、むしろ余計な負担が減ります。
参考にもならないことも多いですし恩着せがましいですし聞きたくもないです。
あといきすぎた厳しさによって人を成長させようとする人には、基本的に僕は何を言っても話が通じない人と割り切り何も言いません。
 
 
他者へ厳しいことばかり言う人はほとんどの場合、自分にも同じような厳しさを向けられると、反発心を抱きます。不満を持ちます。時にはガチギレします。
自分が誰かに、厳しさを向ける時は教育的指導という形で正当化しますが、自分にも同じような厳しさを向けられると、攻撃されたと解釈します。
やられたらやり返す思考を働かせるようになるのです。
自分が理不尽弾幕スパルタ教育的指導を向ける時は、目下の者や自分よりできない人、自分より知らない人には、成長の為、会社の為、将来の為、世の中の為とキッチリ正当化されるが、反発は許さないとします。
自分にも弱さはあるが、厳しい教育的指導を向けられれば、理不尽に物申します。全力で反撃しますという事である。
自分の弱さ、完璧には程遠い状態、不完全さは許されて当たり前で当然で、他者の弱さや不完全さは絶対に許しませんという事です。(そのような身勝手も無罪放免というのが今の社会の一部です。指摘する人さえいません。)
私にとっての普通は『自分がされたくないことはできるだけ人にしない』なのですが
厳しさを肯定する人たちは積極的に自分がされたくないことを他人にしますという事です。
 
こう言われると自分は耐えられた、忍耐できた、ですから何も自分ができないことを人にさせようとしているわけではありません。という方もいるかもしれませんが、
時には自分が耐えられた、忍耐できた、自分にはできたからといって、
自分が平気だからといって、それをしてもいい事にはならないこともあるのです。
 
自分がされたくないことを人にしないというのは大事ですが、自分ができた、平気な事だからといって、他の人もできる、平気だとなるとは限らないということです。
 
例えば、僕はネタバレとか痛くもかゆくもありませんが、ネタバレは嫌がる人もたくさんいます。自分が平気だからといって、他の人もOKということにはならないと思います。
私も含めた、たくさんの人は人間は、自分を基準にして考えがちですが、基本的には自分の基準を他人に押し付けることは控えめにしたほうがいいと思います。
みんな同じ人間ではないのですから。
 
 
 
人の息遣いが気に入らないという人もいるし、可愛いと言われて不機嫌になる人もいる。褒められるのが嫌と言う人もいる。縛られて喜んでる人もいるし、叩かれてうれしい人もいる。かわいそうという思いを向ける先も人ぞれぞれ違いますし、
たくさんの人が苦しいと思うような経験でもやはり平気な人もいますし、たくさんの人が楽しいだろうなと思うことが苦しい人もいるんですよね。
たくさんの人がネガティブになるような言葉を言われても平気な人もいるし、たくさんの人が言われても平気な言葉で傷ついてしまう人もいるんですよね。皆同じ人間じゃないんですよね。
もっと伸びていく長所も人それぞれ違うし、中々変えられない短所、どうしても変えられない弱点も人それぞれ違うんですよね。得意な努力も苦手な努力も人それぞれかなと思います。
同じ種類の犬、猫でも好みや性格や癖等ざまざまな部分それぞれ違うということもあります。動物だけでなく、僕たち人間も僕たちの思う以上にそれぞれ違うと思います。
 
 
 
人に迷惑をかけるなと言いながら、花粉症なんて昔はなかったんだ。花粉症なんて言ってる人は根性がないと話してる人もいます。アレルギーで牛乳が飲めませんというと甘えだという人もいます。鬱も甘えだという人もいます。根性がない気合いがないからアレルギーになんてなるのです。私はアレルギーになったことがありません。イジメて鍛えてあげます、という人もいます。
 
 
(本当の意味で誰にも迷惑をかけないのなら、個々に対しての配慮が必要になると思います。一人一人みんな違うのですから。…誰にも迷惑をかけないなんて無理ゲーすぎるので僕は半分以上諦めてますけど…。)
 
 
たとえ二人の人が同じ映画や本を見ても感想が違う内容になったりもしますし、二人の人が同じ勉強をしていたとしても時間がたって覚えている部分と忘れている部分が違うこともあります。
例えば二人のテストの点数が同じ70点だったとしても、正解している部分と不正解な部分が違うということもあると思います。
飛んでる鳥や目つく看板や通り過ぎる車など同じ風景を見ていても気にすること、記憶していること、覚えていることも忘れることも注意を向ける場所も人それぞれ違っていることもあります。
 
どうしてこんな話をするのかと言うと、自分が記憶、理解できていることが分からない人がいると、どうしてわからないんだと機嫌が悪くなるからです。
理解や記憶が違うのは自然な事だと思いませんか?
同じように学校で授業を受けていれば、結果的に差が開いていくのは想像に難くないと思います。
良くも悪くも自分と他人に差が出るのは、自然な事だと思います。
雨が降るくらい自然なことだと思います。私はたまに雨が降るくらいなら好きですけど、やはりどちらかと言えば、晴れているほうが好きですけどね。
 
 
あとどうして人は気付くのか、ひらめくのかというと、僕も分からないんですけど、向いている人というのは向いていない人と比べて自然にスーッと気付いていく感じなんですよね。(多分、全ては必然で起こるべくして起きているらしいので、ひらめき具合にも、なんらかの理由があるのかもしれません。)
一度の経験で、たくさん気付ける人もいるし、5回10回で気付いていく人もいると思いますし、100回1000回同じ経験をしても、分からない人もいます。
だからと言って大器晩成という言葉もありますように、成長が遅いからダメってことでもないとも思います。(経験だけが成長の全てではないと思います。)
 
 
 
様々な分野の成長のペースも仕事を進めるペースも 長所や短所も狂い方も 人それぞれ違うと思いますし、ほとんどの人が違う人生を歩み、それぞれの生い立ちがあり違う経験を積んでそれぞれ違う背景のようになっていくのかなと思います。
辛い経験とか苦しい経験も楽しい経験も、 気付けることと気付けないことの一人一人の様々な積み重ねも、強さや弱さの違いも結果的に個性として人間に多くの違いを持たせてるのかなと思ったりもします。
 
 
 
ホントの事は難しくて僕もよくわからないんですけどスピリチュアルとかですと、輪廻転生みたいな感じで、人は何度も様々な人生を繰り返してると言われてると思うんですけど、
前世の経験とか前世から積んできた徳とか好ましくないカルマだとか、人との前世からのご縁や、前世から引き継いでくる課題のようなものも、あるらしいんですよね。
あと生まれてくるときに親を選んで生まれてくるという、説もあってその時に選んだ家系のご縁など課題もいろんなことを引き継いで生まれてくるという説もあるんですよね。
あと生まれてくる前に自分の人生のブループリントというか、 その時々で、必要な学びや経験の為の試練、シンクロニシティみたいなタイミング、家族、人間関係などに出会うかも 台本のような感じで計画して設定して生まれてくるという説も聞いたことがあります。地球での役割や使命がある人もない人もいるんだそうです。
人は自分の人生に起こることを選んで生まれてくるという説もあります。
 
 
ですから、僕が間違ってるかもしれないんですけど、個人の遺伝や環境からの影響だけでなく、そういうスピリチュアルなもっと広い範囲からも、人生は大きく影響を受けているんじゃないかなと思いました。
魂にも、たくさんの前世や来世というように歴史のようなものがあるかもしれませんし、人生ごとに徳と言われるものも、足されたり、引かれたりするのかもしれませんし。いつどこの国に、どのような状態で生まれるかもわかりませんし、それらによって魂の経験も違うものになる事もあるかもしれません。そもそも体の遺伝や環境からの結果、以前に一人一人魂の状態が違うということもあるかもしれません。
もしかしたら、一人一人の魂にふさわしい人生を選んで生まれてくるという事もあるかもしれません。
 
 
 
そんな感じで皆違うからこそ、三人寄れば文殊の知恵とか三本の矢みたいな感じで一人じゃできないことでも皆で力を合わせるとできるようになることもあるとおもいますし、オンリーワンみたいに皆違ってていいと思います。
人それぞれ 考え方は皆、違っていい。人は人、自分は自分と考えたほうがいい時もあると思います。みんな個性がちがうから面白いという時もあるかもしれません。
実際、一人のほうがうまくいくという事もあるかと思いますし、皆違ってていいとも思いますが、一丸となる事でより良い結果になることもたくさんあるかとも思います。
 
 
 
今回、お話させていただいている内容以上に僕の理解も到底、及ばないほどに一人一人違うものですから、その時々で一人ひとりに対しての最適解のようなものもそれぞれ違ったものになってくるのが自然かなと思います。
一人ひとりへの最適解も、突き詰めれば、他者には中々、理解されがたい、『個人的なもの』になっていくような気がします。だからもしかしたら自分だけの道を進んでいくのがベストなのかもしれません。
 
 
 
同じような話を繰り返すようですが、十人十色、千差万別、という言葉はご理解いただけているはずなのに、かなり強引に自分の基準というか自分の考えを押し付けるような方もいます。
十人十色と理解しながら自分の事も知らず他者の事も知らず「自分と他者との違い」を理解できず自分の強引な考えを押し付けてくる人はたくさんいます。
自分と他者との違いを理解したつもり、分かったつもりでいる、十人十色とは大体の人たちや僕が思うよりも本当はもっとずっと深いことなのです。
僕たちは中々、自分の事も他人の事も分からないものなのです。
 
 
おそらく、僕よりも詳しい方でしたら、厳密にはイチゴも桜の樹もバナナもりんごも同じように育てるというわけにはいかないと理解でき、人それぞれ育て方が違うということにも気付き、人それぞれにたいしての対応も違ってくるとご理解いただけるはずと思いました。
 
 
自分ができることで誰かができなかったり、自分が知ってて誰かが知らないことがあったりすると、どうしてこんなこともできないんですか、どうしてこんなこともわからないんですかとか頭悪いですね。無能ですね。と攻撃的に矛先を向けるような、態度や言動になってしまいがちかなと思うんですけど、そうお話しされている、ご自身、自分自身にもできないことも分からないことも限界もあると思います。ですので「自分がされたくないような対応」はできるだけ控えたほうがいいんじゃないかな、 できるだけ寛容にとらえたほうがいいんじゃないかなと思いました
人は生涯完璧にはなれません。人生一生勉強と聞いたこともあります。生きている限りこれで十分という状態にはなれないのかもしれません。
弱さや限界のようなものは、誰の中にもあると思います。
誰にでも闇の部分があると聞いたこともあります。
弱さや限界は考え方、次第では悪ともとらえることもできるかもしれません。
あと世の中には私は正義感が強いです。悪は絶対許さないというふうな、特撮ヒーローのような方もいます。大体の方に闇はあると思うので、悪は絶対許さないというのなら自分の事を絶対に許さないと言っているようなものなのかもしれません。
 
完璧な人間はおらず、自分の弱さを棚に上げ、他人の弱さは許さない。
 
それでは一生お互いの成長の為にみんなで首を絞め合うようにして、粗を探し、弱点や短所、弱さを暴いて互いに攻撃し合う、世の中、人生にしますか?
(あなたが未熟だから弱いから、短所があるから厳しくします。というのなら一生厳しくされます。その理屈が成り立つと思うと震え上がります。)
厳しさは人を育てますよね?間違いないですよね?
厳しさがあったから今の自分があるんですよね?
厳しさにはメリットしかないんですよね?
もっともっと苦しい社会になっていけばさらに人は磨かれていきますよね?
そう考えていくと、ある意味、悪魔のような存在も人間の成長には必要なものなのかもしれません。
そう考えると、犯罪者のような方々や、とても攻撃的な人や、寝ても覚めても他者に勝つ事ばかり考えてるような人たちは、ある意味、人に成長をもたらすための試練を与えてくれる、とても重要な存在と言えるのかもしれません。
…むしろやさしさこそが悪という見方もできてしまうこともあるかもしれません。
優しさが他者の成長を阻害することもあるかもしれません。
人にはストレスがある程度必要と聞いたこともあります。
悔しさがあれば人は大きく成長できるという人もいます。
では悔しさをバネにして成長するためにも、「生まれてから死ぬまで」、生涯責め咎め、お互いに攻撃しあう人生にしますか?
きつい言い方をされると、人は記憶しやすくて、より真剣に取り組むようになると聞いたこともあります。その通りかもしれません。
ではみんなで一緒に、ひどく罵り合いますか?既に人生の悩みの9割は人間関係と言われる状況で、さらに圧力を上げていくのでしょうか?
さらによりいっそうストレスフルな社会にしていきますか?
人間の成長の為、自分以外は全て敵という状態にしますか?
一部の自称右翼の社長様は人を育てる時、褒める事ばかり重視し甘い事ばかり言うから、日本は中国に負けた。
中国は治安も悪く色々な意味で日本よりもとても厳しい国で、だからこそ中国は鍛えられたと話している方もいました。
…日本も中国のようになればよいのでしょうか?さらに地獄のような国にすれば人は育つのでしょうか?
いくら何でもさすがに、んなわけあるかと思いました。
 
人に迷惑をかけてはいけないと言いますが、厳しさの大半は迷惑な物だとも思います。
どちらなのでしょうか?それとも成長の為、人に迷惑をかけるのは良いことなのでしょうか?
みんなの成長の為、にらみ合い、敵対し合う状態は好ましい事なのでしょうか?
しかしそれで幸せになれますか?笑顔でいられますか?平和で穏やかな人生と言えますか?優しい世界と思えますか?愛し合えますか?尊重し合えますか?
死んだほうがマシだと思えるような人生になりませんか?
快適で楽しい人生になりますか?最後に生まれてきて良かったと言える人生になりますか?一人ひとりの成長の為、世の中の為、仕方がないのでしょうか?
 
 
善も悪もどちらも必要だとも思います。しかしやさしさと厳しさのバランスや一人ひとりへの様々な配慮まで、ほぼ全て正確にこなせている自信はありますか?
偏ってはいませんか?ほとんどの厳しい事ばかり言う人はバランスなど考えていないように思えます。相手の抱えている背景、ストレス、トラウマ、育った環境、大体の人は気にもしていないように見えます。
 
 
個人的には、基本的に成長とは自分で自発的にしようとするものだと思います。
自分の成長の為、他の人に勉強してもらうことはできませんし、他の人に練習してもらうこともできません。自分の体の為に他の誰かに筋トレしてもらうこともできません。
自分の健康のために他の誰かにダイエットしてもらうこともできません。
基本的には誰かに、つきっきりで面倒を見てもらいながら、成長していくものではないと思います。(まともな先生も中々いないしね。)
仕事に関しても得手不得手だけでなく、好きか嫌いか、健康面への負担や、人間関係のストレスなど、自分の将来への影響、基本的には他人には理解しがたい事ばかりです。
他人に理解されがたい、自分にとってとても重要なことがたくさんある。
だから自分の道は基本的には自分で開いていくもものなんだと思います。
自分の悪い所も基本的には、自分で改善していくものです。
すると改善できない部分がある事にも気付くよ。
どの悪い所がどのくらい改善できて、どの悪い所が全く改善できないのかも、基本的には自分で理解を深めていき改善を試みていくものです。
すると自分の中々改善できない、弱点も明るみになってくると思います。
(そうしていくうちに自己浄化能力のようになっていくとも思います。)
 
 
そこで他人の傲慢で攻撃的で厳しい教育的指導的な状況が出てくるから、ただでさえ難しい話がさらにややこしくなっていくのです。
ストレスになり、身勝手に無責任に生涯、心に残るようなトラウマを植え付けることになるのです。
 
だから人を育てるようなことはやめましょうとか言いたいわけではないのです。
難易度を軽くみないでほしいという事です。無責任なことは控えて頂きたいという事です。
 
自分への理解は自分で深めていくものです。
他の人には自分が抱える、ストレスや肉体的な疲労、トラウマ、コンプレックス、悩み、その他もろもろのほとんどは、ほぼ理解されないのです。(精神科の方やカウンセラーなどの専門の方に相談されるのは良いかもしれません。)
自分が快適な仕事環境や生活環境も突き詰めていけば、個人的な物になっていくと思いますし、自分がどんなことが心地よいと感じるか、どんなことが不快と感じるかも自分で観察することで理解を深めていくことかなと思います。
何が得意かや何が向いているかは、他者との比較によって理解が深まっていくかと思いますが、それも自分で考えてみるのが好ましいかもしれません。
他の人が、これに向いているとか教えてくれることもあるかもしれませんが、それが正確なパターンは稀だと思います。
 
経験上、基本的には、ありがた迷惑な事に誹謗や中傷するような形で年がら年中、何ができていないか、どこが悪いかというご指摘だけは徹底的にしてもらえます。
 
 
反対意見は大切だという人もいます。僕も大切だと思います。
しかし生まれてから死ぬまで全てを反対され続けることを考えると、とても恐ろしく、やはりイエスマンとノーマンの割合のバランスや個人のストレスの負担のようなものを意識することは大切ではないかとも思うのです。
しかし人間には赤の他人の職場、家庭環境、生い立ち、過去の経験や健康面などの長期にわたる、人生のバランスなど取りようがないとも思います。
そう考えると、やはり基本的には、どちらかというとイエスマンが無難なのかなと思ったりもします。
 
 
しかし本当にありがたいことに他者との関わりあいの中で学ばせていただける事も本当にたくさんあります。
提案していただける事で気付けることもあります。
ご意見をいただけることで軌道修正できるという事もあります。
自分の中だけで完結させようとしていたら、視野が狭まっていくような気もします。
自分の外からの情報、刺激も自分の成長には欠かせないものとも思っています。
しかしやはり人の成長とは基本的には個人的なことであり、限られた時間の中で自分の状態に合わせて、どのような方とお付き合いさせていただくかを考えるのも、自分次第となるのかなと思いました。
限られた時間の中で、どんな自分になっていきたいかも自分が選ぶことなのかなと思います。(万能な人間になることはできないと思います。)
 
現代社会は情報で溢れています。おぼれてしまいそうになるくらいです。
全ての情報を知る事はできないと思いますし、全てが得意という人もいないと思います。全ての情報が正しいという事もないと思います。
(嘘と本当の事が混ざっている。)
個人的には、もはや全てを知る必要はないと開き直っている時もあります。
ですので自分にはどのような事が向いていて、どのような事が向いていないかを理解し、どのような情報が今の自分に必要なるか、取捨選択していくことになるかと思います。
他人に今の自分の成長に必要な情報の取捨選択をお願いするのは大体の場合、精度が低くなると思います。
ですのでネットや本などで自分で調べたり、あるいは聞く人は選んだ方がいいとも思いました。
なので、できるだけ自分に合った情報を自分自身で試行錯誤しながら選び、自分の事は自分で成長させていく形になるのかなと思いました。
幸せは誰かにしてもらうものではなく、自分でなるものとお話ししてくださる方もいました。
人は基本的には自分の事は自分で鍛えようとするほうがいいと思いました。
他者が自分の成長に深い部分にまで関わってこようとすると6割以上、邪魔になると思いました。
他人は変えられないけど、自分の事は変えられるとも聞いたこともあります。
(そうは言いましても、人間の半分以上は遺伝と小さいころの環境で半分以上決まっていると聞いたことがありますし、魚が鳥に、虫がライオンになるような変化はできないと思います。自分が良い方向に変わる事を諦めてはいけないとは思いますが、自分の変化にさえ限界があると思います。)
他者に厳しくしてもらえないと、成長できませんというのでは、大きな成長はできないと思いました。
他者に厳しくしてもらえないと、成長できませんでは、表面的な事しか見ない、他者の成長も理解できない、何でもかんでもやっつけて、正しくしたい暴力的な人たちの、サディストの思うツボだと思いました。
僕たちは、この地球に魂を成長させるために、生まれてきたということを思い出してほしいと感じました。
 
 
自分の事も他人の事も分からない、分かっていないという事もわからない、分かったつもりの人が分からないことに自信を持って取り組んで、状況を悪化させてしまう可能性は誰にでもあるとも思いますが、僕としては傲慢な人には学校でも職場でも家庭でも教育には関わってほしくないです。
例えば、車の事なんて何も知らない僕が、ボロボロのかろうじて動いていた車を修理しようとした場合、ギリギリ動いていたはずの車がさらに壊れて動かなくなってしまうかもしれません。
薬の事もよくわからない僕が、病院で使われているような薬品をデタラメに使ったらどうなるかと思うと恐ろしい気がします。
世の中には傷つきやすい人もいれば、傷つきにくい人もいます。
向き不向きがあり、様々な状態の人がいます。
それなのにどんな人でも何でもかんでも、同じように叩きながら、罵りながら鍛えます。というわけにはいかないと思いました。
 
軍隊とかでしたら弱肉強食で力こそ正義とも思えてくる、あまりにも悲惨な戦争や殺し合いの訓練と思うと、ある程度、そのような理不尽に厳しい側面があっても仕方がないのかもしれませんが、一般人にまでそのような鍛え方をされたのではたまらないと思いました。
そうは言いましても、自衛隊の方が、教育的な厳しさと、イジメとパワハラは違うとも話していたような気もします。
 
あと一部のお医者さんは、精神疾患は遺伝とストレスによって発症するとお話しして下さっていました。
ストレスは猛毒のようなもので、人間の免疫力をものすごく落とすらしいです。
逆に笑う事は、健康面でとても大きなメリットがあると聞いたことがあるような気がします。
人間関係で、多少の我慢は仕方がないのかもしれません。
しかし、我慢が多ければ多いほど、心身ともに弱っていくような気もします。
いきすぎた我慢は人を健康面でさえ徹底的に追い詰めるとも思います。
 
人間の健康は人生においてとても重要な事のような気がします。
リラックスと緊張感とのバランスも重要になってくるような気もします。
人の心や体の複雑さは、人間が作り出せる機械的な複雑さとは次元が違うと感じました。(人間の体も心も、人型ロボットでも未だに再現しきれていない。程遠いと感じます。)
自分の攻撃性が引き金になり、誰かが弱っていくようなことは、できるだけ控えたいと思いました。
 
それなのによくわかっていない傲慢な人達が厳しい教育的指導なんて、もってのほかだと思いました。成長の大きな妨げになることさえあると思いました。
 
本当の事は分からないのですが、一部でアセンテッドマスターと言われている松下幸之助さんは、目下の方にとても厳しかったんだそうです。
しかし、叱る時は心の中で手を合わせながら、叱るのだそうです。
一人一人が宝石を持っているかのように、礼を尽くしながら叱るのだそうです。
叱った後は、「元気にしとるか」と電話したりしてたと他の記事で見た気がします。
 
 
しかし恐ろしい人たちの中には、叱る時は非建設的な内容ばかり話、見下し、嘲笑し、叱った後は、その人がいかにダメなのかを周りに嬉々として言いふらす人もいます。
 
人を叱らないで、育てようとしては、将来的に若手の可能性を殺すことになると話す方もいます。それもよくわかるような気がします。
しかし叱り方や伝え方次第では、若手の心に生涯残るトラウマや、ストレスの源になるような、深い傷を残すようなことにもなる可能性もあると思います。
 
厳しい教育を正当化する方の中には、自分が他者の人生に一生残る深い傷を植え付けた責任からキッチリと逃れておきながら、目下の人間には責任はとれるのか、責任をとれないようなことはするな、責任をとれ。などという人もいます。
厳しい教育を好む方こそ、とても無責任な人たちだとも思いました。
厳しい教育を好む方にこそ、厳しさが必要だと感じることもありました。
しかし経験上、大体の場合、厳しさを振りかざす人たちは、話が通じるような状態ではなく、飢餓、貧困、戦争、災害、病気をいくつも抱えるような、ありとあらゆる厳しさの中でも、理解を深めることはできないだろうなと感じる事もあります。
 
 
人の心の成長には自分と向き合う事、内省内観のようなことが必須だと思います。
しかし厳しさを他者に振りかざす人は、自分と向き合うことが苦手で、鈍感で心臓に毛が生えているような方が多い気がします。
 
(将来的に経験を積めば理解できるが、経験的不足でまだ分かっていなくて反応できないのか、本当に鈍感で何も感じていなくて反応できないのかは、判断の難しい所ではあるような気がしますが…。)
 
だからこそ傲慢になれる、自己評価が甘くなる、自分には何も非の打ちどころがないかのように、自信過剰な状態になれる、だから周りに厳しいことを言いながらも、本人はリラックスしていられる。平然としていられる。鈍感だからこそ、普通の人なら青ざめるトラブルの中でも、争いのさなかにも心はたいして波ただず、平然としていられる、だからこそ平気で戦える。(恐怖心の振れ幅が普通の人よりも少ない。)
普通の人よりも争いへの抵抗が少ない。人を殴る事にも抵抗が少ない。
だから鈍感な感じの人は自分の事を棚の上にあげて攻撃してくる可能性が高めだとも思う。
それらの状態を本人は自分が鈍感なのではなく、他の人と比べて根性がある度胸があると評価していることが多い。
普通の人が震えている時に、自分が平気なことが多い、
すると自分の事を強いと評価してするようになってくるような気がします。
 
経験上、傾向的に傲慢な人が思ってそうな事言いそうな事は(絶対ではありません。)
 
死ぬこと以外はかすり傷というワードに共感する場合が多いように思えます。
私にかかってきたら大したものです。(井の蛙。)
私が本気を出したら大変なことになります。(中二病なの?)
今のあなたがあるのは全て私のおかげです。(恩着せがましいです。利己的な自分の為の人助けです。)
あなたの事を思っている。(分別のない人間に思われたくないです。)
私に勝てると思っているんですか?(他人を犠牲にしてまで勝利したいの?)
こんな感じで対立や争いも大好き。にもかかわらず優しいという言葉を重視するようです。
私は賢い、強い、優しい、と思ったり、言ったりします。
あと命を懸けることや、麻酔無しでの手術を受けられるくらい痛みに強いようです。
というふうに僕の中ではある程度パターン化してます。
仮に鈍感系喧嘩自慢タイプと呼んでいます。
 
自分と向き合える人なら、自分に厳しい評価を下せる人なら、自信がなくなっていくところを、この鈍感系喧嘩自慢タイプは自分に甘い評価ばかりしがちで比較的健康的に見え、周りからは自信のある人と思われ、尊敬され社会的にそれなりに上の立場になりやすいです。ですから社長さんたちの中にもこのタイプはそれなり以上にいます。このタイプは社会的に重要なポジションにつきやすい気さえします。
こういう人を持ち上げる世間様もどうかと思いますが、こういう人だからこそ、これだけ残酷な社会でも、地雷原をものともしない戦車のように生きていけるんだろうなと思います。
まさに勝てば官軍負ければ賊軍、結果が全て、金が全て、正直者は馬鹿を見る社会にぴったりな将という感じです。
 
 
資本主義で結果と金が全てな社会で商売でのフェアな競争は理解できるけど、個人同士で勝ちたがるマウントをとりたがると言うのはどうかと思います。他人に迷惑をかけてはいけないんじゃなかったの?と思ったりします。
 
 
自分自身を肯定するのは良いことだと思いますが、経験上、このタイプは自分よりも強い人には慎ましくなりますが、自分のほうが優位だと感じた場合は、弱い者いじめモードになっていきます。
自分が自分を肯定、鼓舞するようなことを話すのはかまわないようですが、
自分より劣るように見える人、自分より弱い人が私は賢い、強い、優しいと自分と同じように鼓舞、肯定するようなことを話すと、弱さを思い知らせようとしてきます。
とても強い自分の意気込みは許されるが、自分よりも劣るものの意気込みは許さないということと思いました。
自分よりも劣るもの、自分よりも弱いと感じるものは、卑屈になっていないと納得しないようでした。
さらには、僕はあなたの足元にも及びませんなどと、卑屈さをアピールされないと納得しないくせに、卑屈に振舞っていると弱くてどうする、強くなれ私が鍛えてあげます。という人もいます。
自分が天狗になるのは許されるが、他人が調子に乗るのは許さないという人たちです。
強い弱い、優劣に関わらず、他者の事は肯定していれば無難だと思いました。
自分への甘い評価が自己愛や自己肯定感など健康や幸福感につながると理解できていれば、他者に対して厳しい事ばかりいうことがいかに危険かをご理解いただけるかと思います。(ほとんどの場合言うだけ無駄でしたけど。)
 
 
傾向的に他者の内面へのセンサー感度も鈍感で相手が嫌がっていることが分からない時もたくさんある。
だから様々な感情の機微にも普通の人よりも疎い。
自分と他者との違いにも気付かない場合が多い。
つまり他者の状態や自分の状態の情報に気付けていない部分が多い状態で、人を鍛えようとする。
自分には気付けていないことがあると思える、自分と向き合える人なら自分が判断することに慎重になるが、鈍感な人は自分と向き合うのが苦手で、傲慢になりがちで、自分はほぼ全てを知っている前提で選択していくし、自己評価も高い場合が多いので、思い切りもいい。しかし内面のレベルは上がりにくい。
だから内面が攻撃的で自分を観察もせずに分からないまま、人を平気で攻撃するような教育ができる。笑いながら人を小馬鹿にしていられる。
決めつけたり、思い込みで、疑ってかかってきたり、攻撃してきたりします。
(↑この部分は、鈍感な人に限った話ではないです。↑)
自分が分かっていないということも分からないので、気兼ねなく暴れられる。
(中には相手が苦しんでいると知りながら、攻撃している人もいます。)
でも鈍感さは、この地獄のような社会で生きていく上で、とても強力な装備のように思え、うらやましいと感じる事もあります。
それに鈍感と言っても程度の差もあると思いますし、鈍感な人と言えど、経験を積み、自分と向き合い、洗練されていくと、本当に英雄のようになっていくパターンもあると思います。
ある意味、このような方達のように、ほとんどの事を無視できるような弱さに見えなくもない強さがあれば、ずっと生きやすいだろうなと思う事もあります。
 
 
ふと疑問に思ったのですが、実際は褒めたほうがいいのでしょうか?叱ったほうがいいのでしょうか?
様々な状況があると思うので、褒めるだけ叱るだけ、というのもなんだか偏っているような気がします。
時と場合によって、肯定的になったり、否定的になったり、あえて放置したり、お任せしたり、自分の考えを伝えたりと対応は変わってくると思いますが、その時々の対応の仕方、分別、判断、は自分ならできると思いますか?
厳しい事ばかり言う人の中には、できていないのにできると考える人もたくさんいるでしょう。
 
褒めてばかりでは人は育たないのです。魂の成長には「善も悪も」両方必要なんだよとお話ししてくださる方がいました。
僕もその通りだと思いました。必要悪という言葉を聞いたこともあります。
しかしありとあらゆる全てのあくが許されるという事はないとも思います。
清濁併せのむ、という言葉もありますし、結果的には全ては学びではあるものの、おそらく「デメリットが大部分の悪」と「利用する価値のあるの悪」があり、デメリットが大部分の悪は少なければ少ない方がいいと思いました。
しかし薬になる毒のような悪か、薬にならない毒のような悪かという判断は大部分のスパルタ教育を好む方にはできないのです。ほとんどの人には中々できないのです。
 
 
親心から生まれるような、心を鬼にした愛のムチ、とても苦い良薬のような教育は理解できるような気がします。悪というのも悩ましい、とても必要なもの重要なものという気もします。
 
神様や高次の存在やアセンテッドマスターのような方でしたら、針の穴に糸を通すような精密で正確な正しい厳しさによって人を成長に導くこともできると思います。
 
おそらく、このくらいの厳しさならこの人なら耐えられる、この人がこれを学べば、もっと成長できる、もっと幸せになれると考え、
そのためにはこの苦難を経験するしかないと考え、神様たちは艱難辛苦を与えてくれます。(あるいは自分自身が生まれる前に、魂の成長の為、艱難辛苦を設定して生まれてきます。)
しかし未熟な状態では、僕たちは親の心、子知らずみたいな感じで、どうしてこんなにひどい目に合わせるの?と目の前の苦労の意味も理解できず、不満を持つようになっていきます。
そしてある程度、成長した時、あの時の経験はこのためにあったのかと理解できていきます。
ですので神様の計らいでしたら、身を任せるような形で、山ほど不満を言いながらも、最終的には受け入れるしかないです。(あるいは自分が生まれる前に決めた事なら仕方がないのかもしれません)
 
ですが僕は、人間の嘘や理不尽、矛盾まみれの判断による質の悪い教育や指導はほぼいらないと思ってます。具合が悪くなります。(少しでも減ればいいなと思っていますが、イジメのようなものなので、いらないと言ったところでなくなるものでもないとも思います。)
 
他人に叱ってくださいと言うのは、イジメてくださいと言うのと同じだと思います。そして底辺として社会で生きる以上、反対意見や批判は一生影のように離れることはないのです。でしたら私としては苦しみはこれ以上増やされたくないので基本的に拒絶していこうと思っています。または苦しみとは選んで付き合うようにしていこうと思っています。
 
 
傲慢な人の振りかざす厳しい教育とは、利己的なエゴのムチと弱体化の毒のアメになる場合があると思いました。心を鬼にしているのではなく、元々心が鬼という人もいます。私は人を苦しめて攻撃して楽しいという人は悪魔のような人と思っています。
 
心を鬼にした愛のムチとは、主に「人の痛みが分かる人」が、やむにやまれず必要に迫られて仕方がなく厳しくするものだと思います。口角をあげ笑いをこらえながら、涙をこぼしながら、心では泣いてるんだよとムチをふるう人もいるでしょう。
 
他者を下に見て、攻撃してる人は自分の為に、心の中ではご機嫌でエゴのムチをふるっているのです。
 
世の中で行われている教育は怪しいものや、あからさまにアウトって思うようなものもたくさんあります。
 
 
 
誰かに何かを主張する時、意見するとき、考えや感じたことを話すとき、乱暴な言い方や、誹謗するような言葉遣いや高圧的な態度になってしまう人はたくさんいます。
学校の先生にもいますし、公務員の方にも、社長様の中にも親にもアルバイトでも社員の方でも、ネット上でもたくさんいます。ありふれています。
 
きびしい教育が基本的に好きという方に教えを乞う時、成長しなさいと言うわりに、聞いたことに中々答えてくれないし、しぶしぶやっと話してくれたと思ったら頭が悪いだとかクズだとか、せっかくのありがたいお話の中に誹謗中傷をそえて下さる方もいます。
 
攻撃的で人を小馬鹿にして見下してるような、たくさんの人に尊敬されている先生や専門家や、すごい仕事ができる人に質問する場合、こちらが何をどのくらい知っていて、何をどのくらい知らないかもある程度、把握されてしまうのです。記憶されてしまうのです。
その場合は、よく車の免許取れましたね。とかIQ70の障害者とか言われることになります。言われるだけでなく思われることになります。
ですので聞くのは一時の恥、聞かぬは一生の恥とか言いますが、恐ろしい人たちの前では、聞こうが聞くまいが、一生さらし者のように扱われる場合もあります。
怖くて聞けません。
成長しなさいと言いながら、未熟な人が萎縮して弱ってしまう状況を自ら生み出し、鍛えてあげましたと得意になっている人もいます。
 
 
 
人を傷つけるような言い方、攻撃的な言動じゃないと意思疎通できん病気かなんかなのかな、と内心ツッコミを入れることもしょっちゅうあります。
たとえ叱る時でも、注意するときでも、厳しい言い方をしなくてはならない時でも、
できるだけ必要以上に相手を傷つけない話し方を試みたほうがいいのではと思いました。
人のストレスに配慮しない伝え方をする人はたくさんいますが、人生の学びは一生続くのです。
学びの為に一生、ストレスフルな人生を送るような、成長の方法しか選択はないのでしょうか?
自分の考えや、知識、経験、技術を伝える場合、どうして必ず誹謗中傷がセットにならなければならないのかと思いました。
 
身の程をわきまえず、攻撃的で体力や気力さえあれば、人を否定して粘着して小馬鹿にして暴れまわるくらい、僕でもできます。小学生でもできます。社長だってできます。誰だってできます。
誰でもできるような教育や指導は、とても質の悪い教育、指導という名の悪質なイジメだと思いました。
 
イジメが犯罪だとしたら、警察のお世話になっていない、犯罪者がたくさんいて、なんなら犯罪者が教育や指導をしている事さえあると言えるのかもしれません。
イジメやパワハラと教育や指導の違いが分かっていない人がたくさんいると思いました。
 
自分は先輩達に厳しくされて苦労したから、成長したという人はたくさんいます。
苦労したから成功した。だから目下の人にも自分が先輩たちや目上の方に扱われたように厳しく扱いますという理屈のようでした。
目下の人にも自分が苦しかった教育を同じようにするとし、目下の人を苦しめ続けるのです。
「自分が苦しんだから、あなたも苦しみなさいということです。」
自分が小さいころ食べ物がなくて、すごく大変だった。だから子供には食べ物で困ってほしくない。
自分が小さいころお金がなくて、生活が大変だった。だから子供にはお金で苦労してほしくないと考えるのも優しさや思いやりでは、ないのかなと思いました。
 
それなのにどうして自分が次の人達へ伝える時は、自分と同じ目には合わせないという考えにたどり着いてくれないのですか?と何度も思いました。話しました。
自分が苦しんだからと言って、他の人を苦しめていい事にはならないとも思います。
どうして苦しみの連鎖を自分の世代で止めようと考えて頂けないのかと何度も思いました。
しかしほとんどの場合、受け入れてはいただけないのです。ご理解いただくことさえ難しいです。
 
 
人は苦労すると成長すると言います。その通りと思います。
しかし一度の人生で、どのくらい成長するのかは人それぞれなのです。
成長のない人生なんてないと思います。しかし厳しい人生の中でレベルが10しか上がらない人もいれば、50上がる人もいます。分からない人は同じところをグルグル回りどれほど苦労しても分からないという事もあります。
厳しい教育を好む方の中には、暴力的な人もいます。まるで叩かれると成長するかのようです。必ず体で痛い目に合わないと分からないという人もいます。
どうしても子供も大人も体罰が必要と考える人もいます。
では僕では絶対に耐えられないような、練習のたびにお互いに叩き合っているかもしれない格闘技経験者の方のほとんどはアセンテッドマスターのようになれたのでしょうか?
キリスト様やお釈迦様のようになれるのでしょうか?
喧嘩自慢の方や893の方に限らず、暴力的で恐ろしい人たちは、なぜ更生されない方がたくさんいるのでしょうか?
 
僕は暴力による教育は、ほんの少しだけ一ミリくらい有効と考えてます。しかし必須ではなく、むしろいらないくらいだと思ってます。デメリットの方が大きすぎると思ってます。
 
学生時代、喧嘩ばかりしていて、時には頭から血を流して家に帰ったこともあるという社長殿の話を聞いていて、やはり暴力は必ずしも人を育てるわけではないと感じたこともたくさんあります。(話の内容がこのブログの内容くらい滅茶苦茶でした。)
 
仕事を先輩に教えてもらう時、昔はこんなに優しく教えてもらえなかったという人の話を聞いていて、やはり厳しさは必ずしも人を育てるわけではないと感じたことはたくさんあります。(仮に育ったとしても、とても仕事ができる第二第三の暴君が誕生するだけと感じました。)
 
本当に暴力が厳しさが人を育てるというのなら、パワハラといわず義務教育の中で小学校からでも男女問わず、殴り合いでも始めさせてはいかがでしょうか。
 
貧しい発展途上国は、魂のレベルが高い方ばかりなのでしょうか?聖人君子ばかりなのでしょうか?とても治安のよい国ばかりなのでしょうか?
 
厳しい経験を重ねてきた人たちが人生で証明してくれている気がします。
必ずしも経験が人を育てるわけではないと。
経験は大切だと思うよ。でも自分の周りの経験豊富な人達の話やネット上のインフルエンサーの話を聞いてると必ずしも経験は人を育てるわけではないことが分かってくる。
たとえ実際にその辺の雑草を食べて、泥水をすすろうとも分からない人は分からないんだよ。ちょっとやそっと、数年数十年苦しんだからと言って人は成長するとは限らない。そういう私も数十年経験しても、学習できない事は星の数ほどあるよ。
それに一部の人も人に殴られて恐怖したところで、他人を殴らなくなるわけでもない。
実際は人によるよ。個人差があるよ。同じ勉強をしても差は出るよね。同じ経験をしてもどれだけ伸びるかは人それぞれだと思います。
経験は大切だけど、さらに重要なのはその人がどれだけ気付いているかだよ。目の前の人がどれだけのことに気付いているかだよ。
何をどれだけ長い間、経験しようがしなかろうが、気付いている人は気付いている。
経験なんかしなくとも分かる人は分かる。あるいは少ない経験ですぐ気付ける。
 
というか経験することが目的と言うのは違うと思います。経験を経てどれだけの事に気付いたかが大切なのだと思います。気付くために経験するんだと思います。
だから気付きが大切なんだと思う。そのために昔のすごい人は艱難辛苦を与えたまえとか言ってたんだと思う。
 
魂の成長、心の成長はそんなに甘くない。一度の人生の経験で全てをくみ取りきれるほど、この世界の情報量は甘くないと思います。
この世界は厳しいそんなに甘くないという人がいるけど、本当にこの世界の恐ろしさを知ってるの?って思う。自分の弱さも知らないのに?
事実は小説より奇なりと言うけど、それは人間の想像では追いつかないことが実際に起こるからだと思う。それでも経験が全てだとでも?
『実際に経験した?…むなしいね。』
 
だから私は生きている限り、永久に続きそうな過度な苦しみによる成長はできるかぎり拒むことにした。キリがないからね。
 
 
そもそも実際に厳しくされて時には暴力を振るわれながら、それでも自分の矛盾や非の打ちどころが分からない、弱い部分が分からないという人はたくさんいると思います。
 
でもそれが分からないから、スパルタな教育や指導に可能性を感じる人はたくさんいるのでしょうね。
 
それでしたら他の国のように、徴兵制度などにしてみたらいいのかもしれません。
そうしたら、多くの厳しい教育を好むサディストな人達が心から納得するでしょう。
戦う理由も増えるし、自分の強さを正当化できるし、自分の社会的な価値をさらに高めることもできるしね。
 
とはいえ実際、現実では体罰のようなものが必要な事はあると思います。
叩かれないと分からない人というのは確かにいます。
しかし話せばわかるという人もいます。
それに叩いたからといって、相手が必ず理解してくれるわけでもないと思います。
叩かれたからといって分かっていない人は本当にたくさんいるし、
言葉と同じように暴力が意思疎通の方法にはならないと思います。
表面的な事しか見ようとしない恐ろしい人というのは、叩かれないと分からない人と話せばわかる人を、ごちゃまぜにしていることも多々あるのです。
攻撃的な人は大体の場合、話が通じないこともたくさんあります。
自分が小さい時、叩かれないと分からなかったという人が、他者にも自分を重ね、同じように叩いて教えると考えるパターンのようでした。
しかしやはり皆同じ人ではないので周りの人を自分と同じと、とらえないほうがいいのではないかと思いました。
それに経験上、大体の場合、叩かれないと分からないと考えたがる人は、伝え方に疑問を持たない気がしています。
自分が分かりづらい話し方や、ただただ腹正しい言い方をして、相手に伝わらないと相手が悪いとなってしまう場合もあるのです。
それに体罰は禁止とされているようですが、それでもやめられない人もたくさんいます。禁止とされてもたりないくらいか、さらに厳罰化するかで丁度いいくらいだと思いました。
なぜなら何かにつけて隙あらば人をイジメたがる人はたくさんいるからです。
ガス抜きがしたい人はたくさんいるような気がします。
イジメたくてウズウズしてる人はたくさんいます。暴力を好む人もたくさんいます。
攻撃が好き、得意という人もたくさんいます。
 
 
厳しさを振りかざす傲慢な人の中には、子供の頃、壁に穴が開いている物置のような家で育った。それでもたくさん働いて何千冊、何万冊という本を読み、勉強して努力して大企業で役職について、数か国語を学び、海外にも出向いてたくさん社会に貢献して、年収は数千万数億までになり、たくさんの人に認められ尊敬され、人を小馬鹿にして人の頭に足を乗せて笑っているような人もいます。
 
 
大切なのは本をどれだけ読もうが、どれほど苦労しようが、どれほど努力しようが、
どれほど成功しようがしまいが、どれほど社会に貢献しようが、どれほどたくさんの人に尊敬されようがされまいが、今のその人の状態だと思いました。どれだけたくさんの事に気付けているかだと思いました。
どれだけ自分の内面を磨けているかだと思いました。
苦しみは人を育てるというけど、成長の差は個人差があるよ。
歴史上、大勢の人達が私のような甘ったれでは想像もつかないような苦しみを経験してきたと思うんですよね。飢饉や疫病、戦争、犯罪、いろんなことがあったよね?
それで、成長してるように見えるの…?経験は人を育てるはずだったのでは?
 
 
厳しい事ばかり言う人の中には、まるで自分だけが苦労したかのような方もいます。
他者の人生で起きてきたことを見てきたかのように、苦しみを知っているかのように、「あなたの苦労なんて大したことはない」などと話す方もいます。
そのわりに自分が味わった苦労を否定されると、怒りだす人もいるのです。
自分は他者の苦労を否定するけど、自分の苦労を否定されると機嫌が悪くなるようでした。
それは自分がされたくない事を人にしているということなのではと思いました。
自分と同じように苦しむ人を増やしていることになると思いました。
自分のこれまでの苦労を、軽く受け止められ、腹ただしく思えたなら、
自分が他者の苦労を重く受け止めるようにすればいいと思いました。
それが分からない年配の方もいました。
どれだけ年をとっても、経験を積んでも、分からない人は分からない。
しかしそれもほとんどの人に、僕自身にも当てはまる事とも思いました。
(全てを理解できる人はいない。全てを理解する必要もない。人間は全てを知り理解できるようにはできていないと思う。)
 
 
ニュースなどで消しゴムのカスをぶつけられて自殺したという話を聞くと、人の心の痛みを想像しようとしない表面的な事しか分からない人の中には、
笑いながら、なんで消しゴムのカスをぶつけられただけで自殺しなきゃいけないんだ。
そんなこと言ってたら、私は何百回と何千回と自殺しなければならないと話す方もいます。
おそらく問題は消しゴムのカスをぶつけられたことではなく、
カスをぶつけられただけで自殺してしまうほど、何らかの原因で弱っていたということなのではないかと思いました。
消しゴムのカスはトドメであって、もしかしたらメインのダメージ源は他にあるかもしれないです。
 
『どうして理解されないのかわからないけど、人それぞれストレス耐性も違うと思うし、他人がどれだけストレスを抱えているかなんて中々分からないものなんだよ。どうして他人が大してストレスを抱えていないなんて決めつけたがるんだろうね。』
 
外見では普通に見えても、普段から普通に振舞っていても、何らかの原因でそれほどまでに追いつめられていた、それほどまでに弱りきっていたいた。思いつめていた。
心が瀕死の状態になっていたということと思いました。
 
たとえ説明されても、このような話が分からない、親、苦労人、努力家、リーダー、偉い人はかなりいると思ってます。というか実際にいました。
 
身勝手な人たちの教育、指導は「私はあなたの成長の為にどれだけ深く傷つこうが、トラウマになろうが、病気になろうが知ったことではありません。ただどこまでも執拗にイジメ抜いて、叩きのめし続けます。その後にどれだけ成長できるかはあなたの課題であり、私の問題ではありません。感謝されるのならまだしも、文句を言われる筋合いはありません。イジメてくれてありがとうございます。と言えるほどに強くならなければなりませんね。」というような考えであり、そのような人も実際にいました。
 
それに苦労して成長したとお話しされていますが、いまどき苦労してない人なんて少数派だと思います。大体の方がなんらかの苦労を大なり小なりしていると思います。過去にあの時は大変だったなあと思うような経験は、大体の人にあると思います。
あるいは今まさに、大変な状態ですという方もおられるでしょう。
どこからどう見ても、大変な思いをしておられる方はたくさんいます。
それでもとても成長したとは思えない人もたくさんいます。
自分が苦しんだから、成長したという傲慢な人が、無自覚に多くの矛盾を抱え、人を見下して小馬鹿にしてるところを見ると、とても悩ましく思えることがたくさんあります。
苦労したら成長するんじゃなかったの?と本当に数えきれないほど何度も思いました。
大変な苦労をして学んできたのは、社会での生き方や仕事の進め方や、喧嘩や論破、お金の稼ぎ方や勝ち方だけですかと思ったことは何度もあります。
それだけが人間の学ぶべきことの全てなのかと何度も思いました。
 
一度の人生でどれだけ苦しいことを経験しても、人間の成長の幅はそんなに大きくなくて、だから人は何度も生まれて、何度も人生を経験するんだとも思いました。
(人は何百回何千回も生まれ変わってくるという説もあります。)
艱難辛苦とは自分を成長させるための材料のようなものだと思います。
苦労してその経験をどう受け止め、自分と向き合い自分をどのように調整して高めていくかは自分次第だと思います。
ただもだえ苦しむだけ耐えるだけでは苦労を体験、経験するだけでは人は大きくは成長できないと思いました。
 
人は苦しむことで償いになり、良くないカルマが浄化されるとも言います。
だからスピリチュアル的には苦しみは必ずしも悪とはいえない面もあります。
実際苦しむ経験から学べることも多々あると思います。
おそらくスピリチュアル的には苦しむことが、大いにプラスに働くこともあると思います。
しかし僕は建設的な結果になるとは思えない、艱難辛苦は傲慢で未熟すぎる人間に意図的に生み出されるべきではないと思います。現実的な自分の弱ささえ知ろうとしないような人に痛めつけられるのも苦しめられるのも、納得はできません。論外です。
でないと世の中が今のような状態になってしまうのです。
人の痛み苦しみに配慮しない人が、褒めてばかりでは人は育たないと言っていたとしても、自分の判断が間違っている可能性がある以上、厳しい事を言い傷つけてしまうくらいなら、褒めて、応援して、励ましてる方がマシだと思います。
 
 
間違った厳しさで誰かを傷つけるくらいなら、間違ったやさしさで生きたほうがいくらかマシです。
同じような罪を重ねるなら、間違ったやさしさのほうがまだいくらかマシだと思います。
 
 
人は放っておくと、楽なほうに楽なほうに生きようとしてしまうもので、
誰かが悪役を演じることも必要です。と考える方もおられるでしょう。
全くその通りだと思います。
しかし未熟さによって無自覚に悪役を演じてくださっている方も大勢おられるのです。
あまりに多すぎると感じるほどです。
厳しい理不尽な教育を好む人の中には、人をイジメて喜んでいるような印象を受ける方もいます。(教育や指導という体で正当化されるのが大人のイジメです。)
イジメられる人よりもイジメている人にこそ、ケアが必要という話も聞いたことがありますが、子供に限らず老若男女のイジメている人達にどのように接し、どのようにケアしたら良いのか僕にはまだ分かりません。
どのようにしたら、いじめがなくなるのか僕には分かりません。話が通じない大人もたくさんいます。僕はいじめをなくすというのは諦めつつあります。
それに人間はいじめをやめられないと脳科学者の方が話していたような気もします。
いじめが悪だというのなら、人間は悪をやめられないということになります。
人間に悪はつきものということになると思います。
悪は罪だというのなら、人間に罪はつきものということになると思います。
世の中は未熟さ故に無自覚に悪徳、カルマ、借金のようなものをたくさん背負っている人で溢れているのかもしれません。
善意で滅茶苦茶な事をしている人もたくさんいるのです。
ですからあえて悪役を演じる必要性は僕たちが思うほど大きくないと感じました。
善と悪のバランスは昔から悪側に振り切っていると感じる時もあります。
悪役を演じる人なんて既に供給過多になってしまっているとも思います。
既に十二分以上に地獄絵図に近づきつつあるようにも思えます。
もうこれ以上、増やしてほしくないと感じました。
 
 
正確な判断ができる神様が、悪役を演じるというのなら、理解できるような気がします。
きっと必要なことなのだろうと諦めることもできます。
しかし地球は魂の修行の場であり幼稚園のような場所であり、人間の大半はまだまだ修行中なのです。
それなのにおごり高ぶり、自分には判断する力があると勘違いしてしまう方がすごくたくさんいます。自分には正しい悪役がつとまると思う方もいます。
 
 
別の見方をすれば、たとえ悪を演じなくとも、僕は僕の弱さゆえに誰かにとっての悪となりえるとも思えます。知らぬ間に誰かを傷つけることもあるのです。僕もまた何一つ間違えない正しいだけの人間ではないのですから。
 
 
大体の方が、人に厳しくしようとすると、とても建設的とは思えない悪口になってしまったり、矛盾したことを話すことになってしまったり、必要以上に傷つけたりすることになってしまったりもします。
無責任に心にいつまでも残るような深い傷をつけることになります。さらに傷つけたことにすら気付きません。気にしてません。
大体の方が厳しい教育をしようとすると、他者のストレスにほとんど配慮しない、さらに自分自身の態度や振る舞い、言動や行動に配慮しない状態になっていきます。
厳しい教育と言えど、優しさも必要だと思います。
 
 
やさしさや思いやり、自分自身の謙虚さが基礎にある厳しさでなくてはならないとも思うのです。
人間である以上、他者への教育、指導、伝える、話すという時も、自分自身の成長にも気を配らなくてはならないとも思うのです。
できれば、共に成長していると考えたほうがいいと思いました。
自分も学ばせてもらっていると考えたほうがいいと感じました。
人の心は曇りやすく、穢れやすいとも言います。正確な判断もすごく難しいです。
それなのに他の人にばかり意識を向けていては自分の事がおろそかになってしまうものだと思います。
 
ほとんどの厳しい教育を好む方は、他人の頭のハエを払っている場合ではなく、自分の頭のハエを払いましょう。という状態にいるように思えてなりません。
 
厳しい事ばかり言う人の中には、たくさん矛盾を抱えていて気付いていない人もいます。
 
自分が悪口を言うような鍛え方しかできず、かなり頻繁に誰かを否定するような事や悪口を言いながら、他者に対して悪口を言うのはやめなさいという人もいます。
 
ルールを守りなさい。ルールを守らない人はクズです。と言いながら、高速道路を180キロで走る人もいます。
 
自分の家族や大切な人が、ひどい目に合っていると激しく怒るのに、自分が誰かの大切な人や家族をひどい目に合わせているということは、よくある事だと思います。
 
大人がイジメをやめられないのに、子供にイジメをやめなさいということもあります。
 
嘘をつくのはやめなさいという人が、嘘をついていることは普通によくある事だと思います。
 
約束を守りなさいという人が、カリパクすることもあります。
 
囚人の方が、鉄格子を握りしめ、どうしてルールを守らないんだと話しているような状態の方はたくさんいます。
弾幕ゲーか‼と思えるほどブーメランを飛ばす人もたくさんいます。
 
 
僕たちは矛盾を抱えていて、中々理不尽ではない状態、矛盾していない状態には簡単にはなれないです。
人間がありとあらゆる面で一貫性がある状態を維持し続けることはかなり厳しい気がしています。
ですから矛盾の少ない状態を目指すのは好ましいとも思うのですが、
他者の矛盾を責め立てるようなこともできるだけ減らしていきたいような気もします。
間違えてしまうことも多々ある人間同士で、お互いに重箱の隅のつつき合いをしていては仲良く離れないような気がします。他者のプライドを守るような気づかいも必要な気もします。正しさだけが全てではないとも思いますし、いちいち揚げ足をとらないという姿勢も大切とも思います。(ちなみに私はご覧の通り、矛盾と理不尽にまみれています。)

 
では人の間違いは誰が修正するんだという声もあるのかもしれませんが、
基本的には誰かに指摘されるのを待つのではなく、誰かの手を煩わせることなく、
自分の改善は自発的に自主的に、できるだけ自分でするという姿勢がとても重要だとも思います。
(経験上、穏やかに時間とエネルギーを、たくさん消費しながら何年も説明して分からない人は、どれほど偉かろうが怒っても理解できません。自分の弱さが分からない静かに伝えて、理解できていない人が厳しい口調で説明されて理解できるようになるパターンは稀だと思ってます。
ある程度、粘り強く、伝え方を工夫して時間もかけて穏やかに説明して、それでも理解されない時は、話しても伝わらないなりに、それなりの割り切った対応が必要になってくると思いました。)
 
人は自分の事も中々、分からないものなのでブーメランは人である以上、ある程度は仕方がない事だとは思います。私にも飛んできます。
自分と向き合うのはとても難しい事でもあるとも思います。
自分と向き合える方なら、自分への理解が十分ではなく、無自覚に自分もできていないのに他者を咎めてしまい、後から後悔するようなこともあるでしょう。
穴があったら入りたいと思うような状態になることもあるでしょう。
しかし気付くことができたのなら、大きな一歩だとも思います。
人間にはそういう時期があっても仕方がないとも思います。
というか生涯そのような時期ともいえるかもしれません。
そのような成長の過程への理解は必要なものとも思います。
逆に恥ていて悔やむ気持ちがある人を追いつめるのもよくない事とも思います。
 
それに時には自分ができていないのに、誰かにもっとこうしてほしいと恐縮しながらも慎ましく話さなければならない時もあるかもしれません。
そういうときもあるとも思います。(受け入れてもらいにくいとは思いますが…)
自分ができてないのに、他の人にあれこれ言う資格はないとは僕は思いません。(無自覚でない限りは…。)
 
そもそも僕自身が、自分の抱えている矛盾を解決することが難しいと感じているからこそ、あまり厳しいことは言いたくないということもあります。
 
しかし自分が矛盾しているという自覚さえなく、それなりの立場になり30代40代50代60代以降になっても自分と向き合うこともほぼなく、自分の弱さも限界も受け入れず、自分ができていないのに、他者には弱さを受け入れさせようとし、攻撃的な態度で厳しく激しい口調で罵り誹謗や中傷というのは一体どういうことですか、と思う事は数えきれないほどありました。どんだけ自分の事を棚に上げるんですかと思いました。
 
理不尽に対して不平不満を言うなという方もいるかもしれません。
そのような方は自分自身の筋も道理もない状態を認めません、改善するつもりはありません。身勝手な状態を貫きます。ということだと思いました。
(僕たち一人一人が、あからさまに理不尽な状態を維持しようとする限り、意識せずとも、おのずと互いに苦しめ鍛え合う状態になる、と思いました。幸せな人生はさらに遠のいていくと思いました。)
 
自分はまるで既に完成しているかのように考え、自分と向き合えない身勝手な人に成長しなさいと言われても、信じるに値しないと思いました。
人に何かを話すときは、聞いてもらえる人間にならないと、いけないと何かで読んだ気がします。
 
他人を変えようとする前に、まずは自分を知る事から始めてほしい、まずは自分を変えてほしいです。厳しさをどうしても振りかざすというのなら、それなりの状態になってからお話ししていただきたいと思いました。それなりのものを見せてほしいと思いました。
 
 
確かに結果も必要と思いますが、人間の成長には長い時間がかかりますし、その間、見守る姿勢も大切と思います。その人の性格や過去に経験してきたことや、その人の影の努力や余力や、得手不得手などにも気を配り、人の幸せをできるだけ妨げず、できるだけ傷つけ過ぎない、聞く耳を持つ、ストレスにも気を配る、しかし最大限に人を育てる厳しい教育とは、とても難しいことだと思います。
自由すぎてはいけないし、優しすぎてもいけない、しかし厳しすぎてもいけない。
ある意味、ものすごい職人芸です。あるいはまさに神技です。
普通の人にできることではないと思います。
厳しい教育や指導などのような余計なことはしないでほしい思いました。
 
 
あと一人一人が様々な分野に挑戦すれば成長に差が生まれるのも、自然な事かと思いますし、誰が上で誰が下で、勝った負けたと、マウントの取り合いをするよりもゆずり合うほうがいいんじゃないかなとおもいました。
(一人一人が違う状態の人たちではゆずり合うような気持ちがないと個性の衝突のようなことも出てくるかもしれません。)
そうはいっても立場上、職業がら難しいという方もいるかもしれませんし、好き嫌い、生理的に無理という感じで、相性の良し悪しもあるかもしれませんし、恐ろしい方々も本当にたくさんおられますし、見限らなければならない人もいますし、人間関係の断捨離が必要になる事も実際にあるかと思います。(嫌いだからといって攻撃する必要はない、距離をとればよい、ということもあります。)
自分が優位な場合は他者を攻撃してもよい。人の不幸は蜜の味。人は誰しも争いたいわけではないと言いながら、争いが大好きという人たちもたくさんいます。
攻撃を悪い事と思っていない人はたくさんいます。
話が通じない人もたくさんいます。自分の為に、他者を犠牲にしてもいいと思うような人もたくさんいます。
さらに自分軸優先ということもありますので綺麗ごとだけではやっていけないという時もたくさんあるかもしれませんが、
違いに目を向けるばかりではなく同じところにも目を向け、お互いの違いを理解したうえで、できるだけ寛容な感じで、できるだけ仲良くしようとしたほうがいいんじゃないかなと思いました。
我慢の限界は誰にでもあると思いますし、誠実に対応すれば、みんな仲良くなれるわけではないかもしれませんが、
できるだけ認め合う、許し合う、受け入れる、和解するということが、どうしても必要になってくると思いました。
数名の中でたった一人二人がイライラして不満を持っているだけで、周りを巻き込んで幸せも平和も遠のいていくと思いました。
自分とは違う人にたいしての対応の仕方をもう少し柔らかくしてもいいんじゃないかなと思いました。
正しさだけでは、効率、生産性、理屈だけでは、人は仲良くできないのではないかとも思いました。
 
 
若いころはよくわかりませんでしたが今なら少しはわかるような気がします。
そもそも仲良くするつもりなんてない人も世の中にはたくさんいるんだと。
オトナの人達がここまでひどいと思わなかったよ。重症だと思う。
汝敵を愛せよと聞いたこともありますし、言わんとしていることは、なんとなく分かるような気もします。それは正しいとも思います。しかし実際、目の前に敵がいて攻撃され続けている中、愛し続けるのはあまりにもハードルが高すぎると思いました。
和をもって貴しとなすは言うは易しと思いました。…。
 
 
今回のようなお話を聞いた方の中には、悔しさや反発心を抱き、あなたなら正しい教育ができるのでしょうと、またしても思い込みや決めつけ、勘違いで勝手な解釈をする人もいるかもしれません。
しかし僕は今回のお話では、教育や指導の効率などに関して、もっとこうしたほうが良いという話がしたかったわけではありません。
自分の攻撃性や間違った判断による、苛めとさえ言えるような教育、指導などを、あなたの為、成長の為などという理由で正当化しないでほしい。
よくわかっていない人は、あまり他者の成長に深く首を突っ込まないで、無難な対応をしてほしいと話しているのです。僕もそうしています。
他人に対して責任はとれるのか?と聞くくらいなら、そういう自分も責任の取れないことは控えめにしてほしいです。
イジメに近い指導や教育しかできないのなら、そもそも何もしないでほしいと話しているのです。余計なことはしないでほしいと話しているのです。
自分の仕事が新聞に載るような人だろうが、年収が100兆だろうが、表彰状が山になっていようが、邪魔をしないでほしいと話しているのです。
 
大体の場合、話は通じないので、話しても仕方がないかもしれませんが…。
こう言うと、だったら最初から何も言うなと言う人もいます。
どうして思っていることを話さないんだという人もいるし、
黙っていても攻撃され続けるし、
話そうが話すまいがいくらでも曲解するのに、自分の思っていることを話さないから、誤解される、勘違いされるという人もいるし、
話しても分からないのに、言わなければ分からないという人もいるし、
理解、共感することもできないのに、相談に乗るよというから話せば、話したで引き出した情報を元に揚げ足をとったり攻撃してくるし、
話したら話したで、他者には言い訳をするなと言いながら、経験上7割以上の人はきちんと言い訳をするし、
話したら話したで、否定的に「そんな人見たこともないし、そんな話初めて聞いたんだけど」というような反応が返ってくるし、
話せば話したで、全部自分が悪いのではなく、周りの人、社会が悪いんですよね、人のせいにばかりしているから、ひどい目に合うのです。という人もいるし、
イジメられるのはイジメられるようなことをする人が悪いという人もいます。
 
ぐうの音も出ないくらい論破とか自分の勝利しか頭になさそうなマウント大好きそうな方もいますが、論破されるような人の中には、まともな人もいると思います。
 
できるだけ理解しようとする思いがあり、理解する力があり、勝ち負けでなく、勝ちたいだけでなく、言葉だけでなく、思いをくみ取ろうとし、
自分の弱い部分も心の中で受け入れているような人なら、相手が話している内容のほうが正しいとなり、論破された形になることもあるかもしれません。
相手が間違っていると感じても、相手に恥ずかしい思いをできるだけさせないように配慮するような人の場合はなおさら、攻撃力はさらに落ちるとも思います。
 
しかしまともではない人は、最初から負ける気なんてないし、譲歩するつもりもなく、自分が勝つことが最優先だし、理解も共感もなく、話を聞いているようで聞いていないということもあります。なので話も通じません。論破されている事、自分が矛盾していることにさえ気づかないということもあります。話の内容も理解もできていないということもあります。ですのでほぼ絶対に負けません。さらにあの手この手で勝とうとしてくる時もあります。まともではない人は1対1では、ほぼ絶対に論破されないということもあります。
自分が勝利の美酒を味わうためなら、他者に敗北という煮え湯を飲ませることも、かまわないという感じの人もいます。そのような恐ろしい人に建設的な議論をしましょうと言われて、震え上がったこともあります。
 
世間様や恐ろしい人たちにあれこれ言われてると、一体どうしたら納得するんですか?っていう感じになることもあります。このような話しをすると今度は被害者意識、被害妄想、自己憐憫に浸っていると言われるし、話そうが話すまいがサンドバックのように扱われます。
やりたい放題の言いたい放題のルール無用の何でもありかと思いました。
普通に詰みます。どうしようもないです。
 
世の中にはどれほど辛い目に合っても、なかなか顔に出さず、誰にも愚痴も不平不満も言わず、色々な意味で反面教師としてもたくさんの事を、学ばせていただいたと感謝の言葉を、伝える方もいます。(恐ろしい人に感謝を伝えても増長するだけですが…。)
ですので僕も内心では不満たらたらではあるものの人間関係、次第では当たり障りのない事を話し、基本的には大事な事は沈黙という姿勢になるほかないのかなと感じました。
 
 
いつも通り脱線しまくりで何の脈絡もない拙文となってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、目を通して下さり本当にありがとうございました。