ゆるふわ探求

普段から思い考えていることを言いたい放題、お話しする趣味のブログです。

# 6 数が多いから正しいという多数決は数の暴力、多数派は常に正しい。みんなが正しいという考えに基づいた多数決はあてにならないと思います。人間には本当に大切な事はそう簡単には理解できないと思います。

「みんなやってるよ」という人もいるけど、みんなで良くないことをしていれば正しいことになるわけではないと思います。
 
昔は一部の国で人同士で共食いをしていたらしいですが、みんなで共食いをしてれば正しい事になるのかな。(人の体から、人肉カプセルとか人肉か骨かなんかの漢方薬とか薬のようなものを作っていたという説もあるそうです。)
 
歴史の事もよく分かりませんが、昔、世界中で戦争していたこともあったらしいです。
 
世界中でみんなで戦争してたら、正しいことになり、もっと積極的に戦争しましょうとなるのかな。
 
あまり触れたくはないのですが、テレビでの話を鵜呑みにしてしまう方もたくさんいると聞きます。
 
本当の事は分かりませんが、日本でも8割の方が疫病への予防接種を受けられたというお話も聞いたことがあります。僕は専門的なことも何も分からないので、ハッキリとしたことは言えませんが、みんながやっているからと言って、押し付けるのは控えて頂きたいと思いました。
 
あと赤信号みんなで渡れば怖くないというけれど、みんなで泥棒をしていたら許されるのかな。みんなでやれば間違った事でも怖くないというだけ、抵抗が少なくなるだけで、許される事になるわけではないのではと思いました。
 
多分、僕よりもさらに社会や、世の中の仕組みやあり方、歴史を知っている人ほど、多数派の判断に疑問を抱くような部分が出てくるのではないかと一人で思い込んでいます。
 
多数派が間違っていたことはほとんどないのでしょうか。
 
常に多数派が正常な人で、少数派が異常な人なのでしょうか。
 
少数派は常に間違っているのでしょうか。
 
「みんな言ってるよ」と言う人がいるけれど、みんなが言う常識や普通とは本当に常に正しいものなのかな。
 
郷に入れば郷に従えとも、長い物には巻かれろともいうし、話したところでほとんど理解されないから、普段は何も言わないけど、本音を言うと『普通とか常識』とか、わりとなんでもいいです。(常識や普通の全てが間違っているとは思ってないです。)
 
「嘘をつくとみんなから信用されなくなる」という人がいるけど、…本当にそうかな。
 
僕の自慢の節穴には、嘘をついてる人達も、しっかりと信用信頼され、尊敬され、中には崇拝されている人もいるように見える気がするけど…。
 
「一度失った信用信頼は簡単には取り戻せない。」というけど、人間の信用信頼とはそんなにも正確なものなのでしょうか。本当の意味でそんなにも重要なものなのでしょうか。(社会的に生きていく上で重視せざるを得ないというだけで、人間の信用信頼の正確さはとても怪しい気がしています。)
 
「私はたくさんの人から尊敬されている」という表面的な事しか見ない人がいるけど、尊敬ならカルト宗教の教祖様だって集められていると思います。893のトップだって尊敬されることはあると思います。ブラック企業の社長殿でも称えられることはあるでしょう。
あの人は良い人と言われるような人でも、恐ろしい人もかなりいます。
世の中には尊敬され、人気があり、時には崇拝されるような、恐ろしい人たちもいます。
 
それにリップサービス、社交辞令、処世術的に尊敬しているかのように振舞うこともあると思います。何も知らず分からずシンプルに尊敬しているという人もいると思います。
 
問題は尊敬しているという、たくさんの人が何を見て、どこを見て、どう感じ、どう考えたか、なぜ、どう評価したのかだとも思います。
 
質の悪い判断の人たちの、尊敬はそれほどまでに、重視するようなものではないと感じる事もありました。
 
にもかかわらず、「世の中の人達はちゃんと見てる。とてもよくみている。」と話す人もいます。見るだけでいいのなら僕でも大体できます。誰でもできると思います。
(正確に見ている正確に分析、評価できている、という意味でのちゃんと見ているという表現であれば、それは違うんじゃないかなという感じになっていくと思います。)
 
多数派の人、人間の持つ能力、人間の理解する力、認識する力が分かってくると、人間からの信用や信頼などの価値がいかに僕たちが思うほど、重要ではないかが分かってくるかもしれません。
(とはいえ社会で生きる以上、仕事などをする上でも、人間関係でも数にはかなわないし皆で社会で生きているので尊重せざるを得ないので、どうしても多数派の意見は重視せざるをえませんが…。)
 
見下すのは良くない事だと思いますが、決して見下しているわけではありません。
(僕自身もまた、自分自身の判断が本当に正しい物なのか怪しくて仕方がないと感じている時もたくさんあります。後から過去を振り返ってみた時に失敗した、間違えたと後悔することも、星の数ほどあります。)
 
ただ自分の状態という曇ったフィルターを通してはいますが、できるだけ見たまま目の前で起こっていることを話しているつもりです。できるだけ自分なりにありのままに事実を受け入れているつもりです。(それさえも真実ではないという可能性も普通にありますし、フィルターは人の数だけあるとさえ言えるとも思います。)
 
嘘をつく、悪いものは良くない者は淘汰される、仮に天下をとれたとしても、三日天下であるかのように、話す方もいますが、本当にそうでしょうか。
 
中国はとても治安が良くなくて、怖い所と聞いたことがあるのですが、4千年の歴史があるとも聞いたことがあります。実際はどれほど大きな問題を抱えていようが、存続はできているということだと思いました。
 
中国はひどい所と聞いたことがありますが、それでも滅びるどころか、見方次第ではものすごく栄えているようにさえ見える気もします。
 
嘘をつく人、ずるい人、悪口を言う人、分別のない人、傲慢な人、他者を尊重しない人がいると、あたかも人間は正しい人と、そうでない人を区別できていて正しい人を尊重しているかのように「それでは人はついてこない」という人がいますが、人はどれほどおかしくとも狂っていてもついていくと言えることさえあると思います。
 
好ましくない組織、コミュニティ、カルト宗教やブラック企業、滅茶苦茶な人が成り立つのは、それを信じて支える人、求める人がいるから成り立つと思います。応援する人がいるから栄えると思います。
なんなら人生と、命をかけて、尊敬する滅茶苦茶な人を守ろうとする人もいるでしょう。
 
僕はいまいち詳しくないのですが、陰謀や都市伝説などスピリチュアルなどでは、ディープステートとかカバールなどを作れるような、いわゆる闇の勢力も何百年とかあるいは、それ以上と続いていると聞いたこともある気がします。
 
歴史や聖書は、改ざんされていると、聞いたことがありますが、あと歴史は勝者の作るものと聞いたこともあります。
 
結果が全てだと、一番になれるような人は正義の人で、正しい人であるかのように話す方がおられるのですが、本当にそうなのでしょうか。
 
僕は歴史の事も本当の事も、よく分からないのですが、日本は戦争で負けてから、アメリカの属国、植民地のようになってしまったという説を聞いたことがありますが、仮にそれが本当だったとして、日本が敗戦国で悪で勝ったアメリカが正義なのでしょうか。日本が間違っていて、勝者であるアメリカは本当に全て正しいのでしょうか。
 
結果が全てで勝てれば支配してもよいということになるのでしょうか。
強ければ何をしてもいいのかな。勝てば官軍になるわけではないと思うのですが…。
 
あと恐ろしい人がリーダーになるのは、滅んだ方がいい状態だからと、話してくださる方もいました。
 
愚か者が選ぶのは愚か者とも何かに書いてあった気がします。
 
政治家がおかしいという人もいるけど、そのおかしい人たちを投票という多数決で選んだのは僕たちなのかもしれません。
 
国民は自分たちのレベルに合った、政治家しか選べないと何かで見た気もします。
 
あと説得力を感じる、腑に落ちたというけど、それらは間違いない正確なものでしょうか。
 
人はなぜ、どうして腑に落ちるのでしょうか?どうして説得力を感じるのでしょうか?
 
説得力を感じる、腑に落ちるのはなぜか、人間は間違ったことにさえ、説得力を感じ、腑に落ちる事もあると思います。(だから多数派は常に正しいということにはならないとも思います。)
 
頭がいい人賢い人なら、もっともらしいことを言って、聞いている人たちに間違った事にさえも説得力を感じさせ、腑に落ちる状態にすることもできると思います。
 
恐ろしい頭の良い人達なら嘘を言って信用信頼を勝ち取る事が出来ると思いました。
 
頭の良い人なら、印象を操作し、たくさんの人をある程度以上、操作、誘導できるような気がします。
 
ある程度、大衆をコントロールできるような気がします。そういう人は本当の意味で正しいかどうかは置いといて、強いとは思います。ですので恐れたほうがいいと思いました。僕のようなアホも、騙されてはいないかと、とても不安になる事もあります。
(有利に見えるリーダーのような人の意志に、便乗しようとする人もいるでしょう。)
 
誘導されて選択したことを、頭がいい人なら、あたかも自分の意志で決めたかのように錯覚させることもできるという話を聞いたことがあるような気がします。
 
種も仕掛けもないという言葉たくみな手品のような話に、僕も含めた人達は簡単に騙されるような気もします。
 
こんなふうに、根はなくとも花は咲くというような社会ですと、意図的なフェイクニュースとかも詐欺でもサクラでも、無自覚な誤解や勘違い、解釈の違いが複雑に絡み合う事もあるような気がします。
僕が間違っているかもしれませんが、多数派の人達はその複雑さに気付いていないような気もします。
 
僕のように騙されている人達や、気付いていない、知らない人たちの判断による、多数決による結果、結論、決定は本当に鵜呑みにしてもいいのかなと疑問を抱くこともあります。
 
なんとなく思ったのですが、僕ごときでは到底足元にも及ばない、大体の頭の良い人たちの議論は井の蛙どうしの小競り合いで、勝敗はその周りの取り巻きの反応や多数決で決まる時もあるような気がします。それにどれほどの意味があるんだろうと思うこともありました。勝つことが目的になってはいませんか?と何度も思いました。
 
 論破したい人は、勝ちたい人、マウントをとりたい人。自分が優位でいたい人。頭がいい人なら嘘をあたかも本当の事であるかのように話し、印象を与える事もできる。
 
本当の事を嘘にすることもできると思いました。 ただのゲームになっていることもあると感じました。
何でもかんでも勝てばいいというわけではないのではと思いました。
(マウントをとれるということ、周囲の人を意図的に誘導できるのは強力な武器になるとは思いますが…。)
 
…最後に愛は勝つとか、最後には正義が勝つとか言うけどいったい、いつになったら最後は来るんだろうと思う事さえあります。…最後じゃ遅いよと思う事もあります。
 
恐ろしい人たちの中には本当の事を言いなさいと、情報を引き出そうとする人もいます。
 
あたかも真実を求めているかのような事を話す方もいますが、本当の事を話せば嘘をついたと言われることもあります。
 
必要とされているのは本当の事ではなく、周りの人たちが納得できる内容であり、本当の事を話したら、ただでは済まないと感じる事もあります。
 
嘘をついている人が本当の事を話しているかのように、受け止められることもあります。
 
多数派は、真実を許さず、嘘を望んでいると思う事さえあります。本当の事を言ってはいけないと思う事さえあります。
(隠しておきたいことがある人もいると思います。)
 
嘘をつくのはやめようね。と話している人が、実際とは異なる事を話し、結果的に嘘をついていることもあると思います。人間という生き物が嘘を言わないということはかなり難しいことだとも思います。
 
子供は無知だからこそ残酷という話を聞いたことがありますが、ある意味、残酷なのは子供だけでなく、程度の差はあれど、分からないことがあるのは大人も同じであり、大人も十二分に残酷だと思います。
 
人間は知らずに知っているつもりで何だってする、どれほどひどい事でもすると感じる事もあります。
 
 
あと「これは総意で皆で決めた事です。」と言われれば、ほとんど諦めるしかないと思いますが、
 
正しいから沈黙するのではなく、10人、100人、1000人の中で、一人二人十人が何を言っても仕方がないと思うからあきらめるのだと思います。
 
数が多い方が正しいというよりは、多数派がそういう意見なら仕方がないと諦めるしかないものだと思います。
 
それに多数決が求められる場面では、一人で負いきれる責任ではないということもあるかもしれません。(責任の重さに怖くなり、僕のように逃げ腰になってしまう方もいる
かもしれません。)
 
仮にたくさんの人に影響を与える決定で間違えたとして、一人で間違えた時はフルボッコにされるかもしれないけど、
みんなで決めたことなら、責任が分散され、みんなの責任ということになり、間違えたとしても、仕方がないで済むことが多いように思えます。
 
求められていることは正しい答えではなく、みんなが納得できるような決定ということもあるかもしれません。
 
正しいとは何か、間違っているとは何かということもありますが、多数派の人達に大きく影響することもあるかもしれません。
 
僕にもしっかりと当てはまる事なのですが結局、人は信じたいものを信じるということもあると思いました。
 
どうして思っていることを話さないんだという方が、おられますが話したところで、どうしようもないということは本当にたくさんあります。
 
思っていることを話せば、自分が不利になると分かっているから話せないのです。
話せば状況が悪化するということもある思います。
 
こういうと、話せば不利になるような事を普段から考えているあなたが悪いのです。と言われることもあるでしょう。
 
反社会的な考えを持っていると言われることもあるかもしれません。ですので、なおさら沈黙するほかありません。
 
それどころか、嘘をついていると言われようとも、多数派を恐れ自衛のために自分は多数派に賛成しているかのような振る舞いを選ぶことさえあります。
 
人間とはそれほどまでに恐ろしい生き物だと思います。一人では生きてはいけないし、社会にいれば他者から自分を守らなければならないし本当に悩ましいです。話が通じない人もたくさんいます。全ての人に理解される人もいないし、理解される必要もないとも思いますが…。
(僕が理解できない人もたくさんいますし、お互いに理解し合えないから、平和的な人間関係が維持できないということにもならないとも思います。)
 
ご理解いただければ嬉しいけれど、みんな人それぞれ考えは違うと思うので、無理に説得しなくてもよいということもあります。別に分かってもらわなくてもよいということもあります。押し付けてもいけないという時もあると思います。
 
実際は少数派が間違っていることもあるし、正しいこともあると思います。
 
実際は多数派が間違っていることもあるし、正しいこともあると思います。
 
多数決や、多数派の判断とは、サイコロを振るよりは良いという程度なのかなと思いました。
 
(多数派と言っても、10人の中の多数派なのか、1000人の中の多数派なのか、100万人の中の多数派なのかという、規模の話もあると思いますし、野球チームの多数派なのか、100人くらいの村の多数派なのか、どのような仕事の同業者の100人くらいの多数派なのかというような、思考の傾向やどのような種類の人達の多数派なのかという事も、多数決の結果を少なからず左右する気がします。あと例えば僕のような、ポンコツのクローンの多数決など、たとえ100億人揃えようとも、どこの誰が信じるんだという事もあるかとも思います。)
 
「少数派は大きく成功することもあるけど、大きな失敗をすることもある。多数派は大きな成功はできないけど、大きな失敗もしない」という人もいました。それはなんとなく傾向的に理解できるような気がするけど、すごく違和感があります。
 
本当に賢い人は、カエルを煮え湯に自分から望んで入るよう誘導できると感じます。
 
結局、多数決が正しい時とは、質のいい判断ができる人たちが、ほとんどという状態で初めて成り立つものという気がしました。
 
多数決が多数派が常に正しいというのなら、病院で患者さんへの治療や手術の内容も、専門的な知識のない一般の人たちの多数決で決めても常に正しいことになります。
 
多数決は決定する時に使うものと思いますが、多数派の人の意見を尊重するため用いられるものであり、本当の意味で神様から見ても正しいかどうかはまた別の話なのではとも思います。
 
正しさとは何かということもありますが、針の穴に糸を通すような精度の高い答えには少数派の専門的な人たちのほうが、正解に近づきやすい時もあるような気もします。
 
専門的な人たちが常に正しいというわけでもないと思いますが、多数派よりも少数派のほうがマシということも時にはあると思います。
 
「何が正しいか間違ってるかはみんなが決める」という人もいるけど、人間に何が分かるんだろうと思う事もあります。
一人ひとりは自分の人生の王様、王女様のようなものであり、選択の連続である人生では、決めていかなくては生きてはいけないと思うので、僕自身も決めていくし、決めるのはどうぞご自由にと思いますが、本当に正しいかどうかはまた別の話であり、本当の意味で究極的に正しいのは神様くらいだと思います。
 
人間の限られた能力の範囲で、人間の理解の及ぶ限られた情報だけで、正しい答えにたどり着けるはずもなく、恐ろしく複雑で難解で、この世界のとんでもない情報量の前には、人間の判断なんて大人であろうと子供の判断のようなものなのではと思いました。
 
神様から見たら、おそらく人間は何も知らないと言っても過言ではないとさえ思いました。
この世界の真実とは本当に難しくて、本当に深いです。深海の如くです。
 
地球の70%は海であり、海の95%くらいが深海で人間は深海の5%くらいしか調査できていないのだそうです。(間違ってたらごめんなさい。)
 
真実とは深い海のようなものなのかもしれません。
 
それでも自分は世の中の大半以上を知っているかのように考える方はたくさんいます。
おごり高ぶる人はたくさんいます。
(そういえばプライドに守る価値はないと聞いたこともあります。)
 
無知は罪なりというけれど、もしかしたら人間がいかに物を知らないかという事が分かれば、いかに自分たちが罪深いかを知る事につながり、慎ましくなるほかないということが分かってくるのかもしれません。
(僕たちが自分たちの罪をどれだけ正確に把握できているのかという事もあるのかもしれません。)
 
僕たちが現実だと思っているこの世界は仮想現実であり、10%くらいで、スピリチュアルな世界が残りの90%という説があり、
スピリチュアルな世界の状態の影響が反映されたのが僕たちが現実だと思っている世界であり、スピリチュアルな世界こそが実際の現実で、
僕たちが現実だと思っている世界は、スピリチュアルな世界の写し鏡であり、
幻想の世界という説も聞いたこともあります。
 
人間の科学も全てを把握できているはずがないのではとも思います。
 
僕たちが現実だと思っている部分でも分かっていない事はあり、スピリチュアルな部分の話になるとさらに、よくわからないことだらけになっていく気がします。
 
正しい答えに近づけるのは、たくさん勉強したうえで人間のとてもありがたい科学にも疑問を抱き、一部の真実にたどり着けるのは、スピリチュアルにもとても詳しい、よほどマニアックな一部の人たちくらいなのではとも思いました。
 
まだまだ勉強不足とは思いますが、僕がこのようなアホ丸出しな話ができるのも、その一部の少数派のすごい方々が色々な事を発信して下さり、そのような情報に僕が運よく出会えたからということもあると思います。
 
当たり前のようにみんなが信じているものが、正しい真実とは限らない、とも思います。
 
というか信じられている事の中に、嘘が本当にたくさん混ざっていると思う事もある気がします。
 
みんな良い人と言う人もいますが、なぜそのような結論になるのか僕にはよくわからないのです。
 
自分の周りに、騙された人や、盗まれた人、利用された人、自殺する人、イジメられた人、暴力を振るわれている人がいて、みんな良い人と答える人もいます。みんな悪い人とは思ってはいませんが、個人的にはみんな良い人か、みんな悪い人かとどちらかを選ぶしかないとすれば、みんな悪い人のほうが違和感は少ないです。
 
(人は結局、自分自身が何らかのトラブルの連続で徹底的に追い詰められて、ひどい目に合わないと警戒するようにはならないのかもしれません。真剣に考えるようにはならないのかもしれません。)
 
みんな良い人でみんなが言っているから正しい、という考え方で生きていては、本当の事は何もわからないと思いました。
 
みんなが言っているから、みんながそうしているからと、鵜呑みにし右へならえでは、本当の事は分からないと思いました。
 
疑われることは嫌な感じがするけど、色々な事に疑問を抱くということはとても大切なことなんだと思いました。
 
自分から様々な事に疑問を抱き考えることで、自分の考えも深めていくことができるのかもしれません。
 
スピリチュアル側では、よくジャッジは良くないかのように言われるのは、おそらく人間のつつましい能力だけでは、考えたところで正確な事が分からないから、様々な問題に対して思考をめぐらせ一喜一憂するよりは、最初から何も心配しないほうが精神衛生的にも波動的にも好ましいということになり、ジャッジは良くないとされているのかなと一人で思い込んでいました。
 
僕は今のところ、あまりきちんと理解できていないと思いますが、宇宙には善も悪もないとお話しして下さる方もおられて、それはそれで正しい気がしたのですが、日月神示や大日月地神示やよひとやむみな、のような神示シリーズでは、神様はジャッジしまくっているような気がしました。
 
人間には中々分からないというだけで、やはり神様から見たら正しい事と間違っている事はあるのではないかと思いました。良し悪しはあるのではないかと思いました。
 
たとえ10%の世界と言えど、僕たちの状態も90%であるスピリチュアルな世界に対しても少なからず影響があり、僕たちの発する言葉や思いにも行動にも大きな力があると言います。もしかしたら僕たちがネガティブな思いや言葉や行動を選び続ければ、様々な悪影響が生まれるのかもしれません。
 
僕も同罪であり、しっかりと加担してしまっているのですが、人間は木を切りまくり地球の自然を破壊しまくり、食べ物の神様はものすごく怒っているとか、生き物を死なせまくっているとか色々な問題があるようでした。
 
記憶があいまいなのですが、
「仏心ではどうにもならんことわかるであろうがな。」
「もうすでに一線は超えているのぞ」
「神は脅さぬと申すものおるが脅さねばならぬから脅すのぞ」
とか書いてあった気がします。(後から修正するかもしれません。)
 
洗脳や支配の結果かは僕にはよくわかりませんが、神様から見たら、僕も含めた今の地球人の大半はツッコミどころ満載でどうしようもない状態なのではないかと思いました。
 
だから今、世界中で起きている様々な問題は神世、弥勒の世にしていくための大難であり大洗濯であり大峠なのかもしれません。
 
今の社会で生きる以上、お金はどうしても必要なものと思いますが、仕事に追われ、忙殺されるだけの日々を生きていては、
(支配のためのお金の仕組みという説もあります。魂が経済を学ぶためのお金の仕組みという説もあります。)
本当は僕たちが知らなければならない事を知る事も出来ず、本来の生まれてきた目的であるはずの魂の成長もままならないのかもしれません。
 
もしかしたら僕たちは、できるだけ自然や動物や様々な生き物と人間の生き方とスピリチュアルな世界の、三方良しと言えるような循環を守り、できるだけ生活を見直し、できるだけ心を改め、神示やスピリチュアルや仏教など様々な事を学び、神様が笑って見守ってくれるような生き方を目指したほうがいいのかもしれません。
最終的にはそれが自分の為にもなるのかもしれません。
 
多数派が常に正しいとは限らないというお話でしたが、日月神示には、
何とか役に立つのは、100人に一人と書いてあるのだそうです。
…僕は算数もうまくできないので間違っているのかもしれませんが、
100人に一人がギリギリ役に立つとしたら、人口が一億だったとして、
神様から見たら一億の中に百万人くらいしか、役に立つ人はいないという事なのかもしれません。…そう考えると神様の審査が厳しすぎて軽く絶望な感じです。
…そんなに少ないの?!…計算間違ったかな……。
 
…口先だけなら簡単と思い話してはみましたが、色々 難易度が鬼すぎて折れた心が粉々に砕け散りそうです…。